「関口」 聖子が去った後、彼はどこからともなく現れた男に背を向けたまま声を掛けた。気配を消して近づいてきたにも関らず、彼にはそれが誰だか分かったからだ。 「はい」 「君はどう思う?」 「あの女性に関してですか?」 「ああ。どうして彼女はあの場所に辿り着くことができたのか。どうも解せんな」 彼は振り向くことなくそう言うと、今はもう見えない聖子の後ろ姿を追うように遠くを見つめた。 「そうですね。普通ならば天候に惑わされたくらいでは、あそこまで入り込むことは不可能かと思います。先日確認した時には、結界に綻びはありませんでしたが。念のため明日再度確かめるよう、指示をしておきました。私も一緒に行って、確認して参ります」 「頼む」 「かしこまりました」 和久は最後まで振り向くことなく頷くと、踵を返した。 向かった先は庭の端にある屋敷へと通じるくぐり戸だ。そこを入るとすぐに、彼の現在の住居兼書斎となっている離れへの入口がある。 「主どの」 庭を横切っていると、どこからか自分を呼ぶこえがした。振り向くと、生垣の側にある石塔の土台に腰を下ろすサダの姿があった。 「お婆さまか。久しぶりですね」 「お勤めか。ご苦労さんじゃのう」 和久は老婆に微笑みかけると、進む向きを変えて近づいてきた。 「お婆さまこそ。毎日あちこちに神出鬼没だそうで。皆驚いていますよ」 「ふん、どうせ碌なことは言ってはおらんじゃろうがな」 そう憎まれ口を叩きながらも、老婆は楽しそうに笑う。 「ところで、どうしましたか?こんなところまでおいでとは」 瀧澤家の庭園は母屋の裏手に造られていて、一般の者は許可なく敷地内に入ることが出来ない。 サダが自由に出入りすることが許されているのは、先々代の妻の世話係としてここに長く勤めていたことや、その関係で和久の父が幼い頃から世話になったことに対する瀧澤家の恩顧があってのことだ、と周囲の者たちには思われている。 山の斜面を一部削った場所に造られている離れと庭園に来るには、下を走る道路から長いスロープを延々と歩かなければならない。健康な若者なら何でもないことだろうが、90歳を過ぎようかという老人にはかなり重労働になるはずで、目の前のサダも最近では滅多なことではここまで来ることはなくなった。 「いやな、主どの。この婆から一つ、お伝えしたいことがあってな」 サダは、顎を乗せていた杖に両手を預けると、よっこらしょと立ち上がり、曲がった腰を伸ばした。 「それならば、言ってくだされば、関口を差し向けましたのに」 和久はこちらに歩み寄ろうとする老婆に手を差し伸べた。 「おお、ありがとうよ。じゃがな、儂はどうしてもお前様に直に伝えたかったのじゃ」 そう言うと、サダの皺だらけの顔から一瞬にして笑みが消えた。そして甲高い声が不気味なほど低く掠れた重々しいものに代わる。既にそれは、今までそこにいた小柄な老婆のものではなかった。 『時は満ちた。だが巫女の魂はこの地に戻ることを厭うておる。斯なる上は、そなたの知恵と誠をもって巫女の怒りを鎮めよ』 「巫女がこの時代の…この世のどこかに生まれていて、今も生存しているということですか?」 「儂にはそのように聞こえたが」 「それは…ご神託ですか?」 「さぁな」 再び元の老婆に戻ったサダが、歯のない口を開けて笑った。 「お前様のご先祖のお告げかもしれん。儂の言寄せは不確かなものじゃからのう」 それでもサダ以上に力のある者は、この数十年は出てきていない。それどころか、この集落でも、自分たちの中にそんなことができる人間がいることさえ知らない世代の者が多くなってきているのだ。 「確かにお伝えしましたぞ、主どの。この機会を逃さぬよう、確りと参られよ。家のため、村のため、そして何よりも…御身のために、な」 サダは和久に向かってそれだけ言うと、また腰を曲げて杖をついて歩き出した。 「お婆様、お帰りならばこちらから行ってください。誰か屋敷の者に、車で下まで送らせますから」 「そうかい?それはありがたい。この年になると、ここを行き来するのはきつくて敵わん。昔は走ってでも上れたものじゃがな。儂も長く生きたもんじゃ」 それを聞いた老婆は立ち止まり、顔を顰めながら腰を伸ばす。そして側に来た和久を、老人とは思えない強い眼力で見据えた。 「主どの、そろそろ儂もこの世からお暇したいと思うておる。この厄介なものどもを飼いならすのもほとほと飽きた。じゃがな…」 サダは杖に身体を傾けてぐるりと辺りを見回し、そして最後に社のある御山を振り仰いだ。 「その前に、巫女のお戻りを見て、この婆を安心させておくれでないか?あちらで待つ者たちへの、冥土の土産にな」 翌日、ちょうど聖子たち一行が宿をチェックアウトした頃、彼女が迷い込んだ山を数人の男たちが歩いていた。 「こちらから見る限りでは、どこにも結界が破られた痕跡はないな」 「ええ。先日確認したときから、変わった形跡はありませんね」 昨日和久と話をしていた関口と呼ばれた男性と、その配下と思われる2人の男は、尾根側を調べた後に再び沢まで下りてきて、何箇所かの「道」を確認して回っていた。 「長(おさ)、あれをご覧下さい」 関口が目を遣ると、彼らがいる沢の対岸の草陰、部下が指を差した場所に何か光るものがあるのが見えるが、そこまで行くのには、かなり上流まで戻らなくてはならない。沢の幅は3メートルもないくらいなのだが、両岸が切り立った深い崖になっていて、飛び越えることは難しく危険だからだ。 「どういたしますか?」 「念のために確認した方が良いだろう。異物があるということは、誰かがあそこ入ったということになる。調べてみよう、万が一ということもある」 30分近くかかって、一行はようやく沢の向こう岸の、目的の場所に辿り着いた。そうして先ほど見つけたものに近づいてみると、それはメタリックの薄いピンク色をした金属で、落ち葉と泥土に半分埋もれたようになりながらも淡い陽光を反射していた。 拾い上げて泥を拭うと、それは小さなストラップの着いた携帯電話だった。 「この携帯は例の女性客が言っていたものかな」 「恐らく。この辺りは滅多に人が入ってきませんし、誰かが携帯を落としたという話は聞いておりません。それに、それを見る限りまだきれいな状態なので、野ざらしになってから日が浅いのでしょう」 念のためにとフラップを開けてみると、まだ電源が入っているようだ。 「壊れてはいないみたいですね。ただ、充電が切れるのは時間の問題だと思いますが」 「そうか。わかった。とりあえず拾っておいてくれ」 「畏まりました。ですが、いかがいたしましょうか?一旦持ち帰って警察に届けますか?」 当然遺失物の届けが出ているのだから、警察に持ち込むのが正論だろう。しかし、拾ったのは沢の反対岸の林の中で、すでに結界の内側にあたる。 いかに警察であろうとも、この位置を特定させるわけにはいかない。 なぜなら、ここはあるはずのない、「存在しない」場所だからだ。 先を進む関口はしばらく考えを巡らせたが、結論を先送りにした。 「いや待て。これをどうするか、処置は戻り次第、総領にうかがってからにする」 HOME |