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蒼き焔の彼方に  41


一昨日、和久が禊に入った。
彼の説明によれば、瀧澤家の当主は、毎回新月の夜から明け方にかけて聖域の中に新たに結界を張り、あの岩屋の前に設けた祭壇で祈祷を行うのだという。
そのための潔斎として、数日前から外界との繋がりをすべて絶つことになる。
彼が聖域に籠もっている間、連絡役として出入りが許されるのは、秘書である関口ただ一人。彼が潔斎中の和久の身の回りのすべての世話を引き受けているようだった。

「祈祷って、何をお祈りするの?」
和久は少し考えるような仕草をしながら、慎重に言葉を選んだ。
「元は巫女の…蒼焔の巫女姫の怒りを解き、山の神々にこの地の守護を乞うために行われていたと聞いている。だが、今ではどちらかといえば、瀧澤の祖先の御霊を鎮めるための儀式になっている」
「それを止めるとどうなるの?」
「ここ数代の当主にそれを試したものはいない。物事に鷹揚だった祖父でさえ、手は抜いたが欠かしたことはなかったと聞いているからな。言い伝えによれば、古くはこれを怠ったために大きな地震が起きたとか、疫病が流行ったとか、未曾有の大凶作に見舞われたという年があったそうだ。
もちろん、偶然そうなっただけかもしれないが、信心深いこの地域の人たちは、どうしても災いを結びつけて考えてしまう。ここを治める者はそれらの不満を押さえ込むためにも、これを続ける必要があったのだろう」
科学万能ともいわれるこの時代、本当にこんなことを続ける必要があるのかどうかは彼にも分からなかった。ただ、信心深くて何事にも規律正しかった父親の後を引き継いでというよりも、大雑把で破天荒だった祖父が残した「これを怠ることはまかりならぬ」という言葉が、強く影響を及ぼしているのは確かだ。

実際のところ、彼が行うのは祈祷といっても何かを祈念するという類のものではない。
ただ、不眠不休でひたすら印を結び、心を無にしてその場に留まるだけだ。
そういえば、祖父はいつもその行為を「漬物石」と揶揄していた。それ自体には大した力も技量も必要ない。ただ自分に課せられた役目は、新月の闇の力を借りて、この世とあの世の狭間から這い出そうとするものたちを、こちらの世界にのさばらせないための蓋の上の重石なのだと。

和久に比べて感の強かった祖父は、先祖たちの御霊の蠢きを感じとる力を持ち合わせていたらしい。今思えば、それ以外にも自分が見たり感じたりしたいろいろなことを、まだ幼かった和久にそれとなく教えてくれていたようだった。
確かに、何度こうしてここにいても、今まで和久自身が御霊の存在を感じ取れたことは一度もない。
だが、毎回新月の夜が終わった後、降りかかる疲労感は言葉に表せないほど重く、体力的には自信のある彼でさえも、数日は何もする気になれないほどだった。大げさではなく、この儀式を終えるごとに自分の寿命が少しずつ削られていくのを感じるくらいだ。

「だから瀧澤の当主は総じて短命なのかもしれないな。祖父はそこそこ長生きした方だが、それでも世間から見れば早死にだと言われた。父親に至ってはやっと50代に手が届いたというところで寿命が尽きた。
私は…さぁ、どうだろうな」
ただ、今のような生活をしていれば、自分も確実に父親たちと同じ道をたどることになるだろうという予感はあった。
「だからこそ、私の代で巫女の呪いを解かなければならないのだ。この先の、瀧澤の子孫たちに私たちと同じ道を歩ませないために」



そして迎えた新月が今夜だ。
その夜、聖子は密かに聖域に足を踏み入れた。
月の光さえない真っ暗闇の中で、誰にも気付かれないように足場の悪い山肌を歩く覚悟をしていた彼女だったが、岩屋までの道筋にはあちらこちらに松明が焚かれて道標となっていて、思ったほどの恐怖感はない。
麓から上っても誰にも出会わなかったので、途中から思い切って整備された登山道に出ると、足元は更に楽になった。
「これだけ明かりがあると、月がなくても迷うことはないわね」


新月の日に彼女が聖域に入ることを、和久は最後まで了承しなかった。もともと特殊な能力を持ち合わせており、感の強い聖子が、特に御霊が荒ぶると言われる新月の夜に、あの場でどんな事態を引き起こすかが予測できなかったからだ。
体力を使いきり、自分を支えるだけで手一杯な状況で、もしも彼女に何かあったらという警戒心が強く働いたし、元々入るべきではない者がその場に加わることで、せっかく張った結界に綻びができることを恐れる気持ちもあった。

だが聖子は簡単には諦めなかった。それどころか、今夜は彼女を監視するように側に張り付いていた名木たちの裏をかき、彼らをまいてここにやって来たのだ。

彼女には、予感のようなものがあった。
それは巫女のものというよりも、自分自身の勘だ。
数百年の時を経て戻ってきた、巫女の生まれ変わりと言われる自分がこの場に加わることで、何かが動き始めようとしている。それが何なのかを自分の目で確かめるためにも、彼女はその場に立ち会う必要があったのだ。

絶対に今夜、何かが起きる。

そう感じた聖子は、何があっても逃げることなく、全てを見届ける決意を固めた。



岩屋までの道筋には幾重にも、この日に合わせて強化した結界が張り巡らされていた。それらの目眩ましに阻まれ、本来ならば誰も立ち入ることのできないはずだが、聖子は何の障害もなく易々と、その内側に入り込むことに成功した。
山道を登りきり、砦の屋敷跡に着いた時、すでに和久は岩屋の祠の前から少し離れた場所に設けられた祭壇の前に着座していた。
暗闇の中、赤々と焚かれる火炉の炎がその姿を影絵のように写し出している。
聖子は彼に見つからないように林の中に身を潜め、その時が訪れるのを待っていた。


そして深夜、和久の加持祈祷が始まった。
すると時を同じくして、彼を見下ろすように聳える大岩の、中腹に穿たれた祠の中から、薄い靄のようなものが漂ってきた。そしてそれは少しずつ集まりながら濃くなり続け、やがて一つの大きな塊となって、彼の周囲に渦を巻き始めたのだ。

何?あれは…?

靄に囲まれた和久の気配が明らかに変わる。振り絞るような声と、前後に揺れ続ける体、それに時々苦しげな唸りが混じっている。だが呻き声上げているのは和久ではなく、彼の周りを囲む靄から空気を伝わるようにして響いてきていた。
それを聞いた聖子は何か尋常ならざるものを感じて、思わず隠れていた場所から飛び出した。

「誰だ?」
彼女の気配を感じた和久が振り返ると同時に、彼の周りにあった渦が恐ろしいほどの勢いで聖子の方に向かって流れ出す。その禍々しさに、彼女は一瞬その場に凍りついた。
「ここから出て行け、立ち去るんだ、早く!」
厳しい形相をした和久が声を荒げが、聖子はその指示を無視して彼の方に向かって走りだす。そして途中で何度も靄に囲まれてはそれを薙ぎ払いながら、倒れこむようにして彼の懐に飛び込んだ。

「何でここに来た?あれほど入るなと言っておいたのに」
聖子を受け止めた和久は、自分には何も見えていないにも関らず、何かから守るようにして彼女を抱え込んだ。
「どうしても、ここに来なくてはならなかったからよ。
だってそうでしょう?もし私が巫女の生まれ変わりだとしたら、あなたと彷徨える御霊たちと、そして未来の子孫たちを救えるのは…きっと私しかいないんだから」
彼女がそう捲くし立てている間にも、靄は二人を取り囲みながらどんどん濃くなり続け、息苦しさを感じるくらいだ。和久も何かを感じているのか、しきりに手で周りをかき回すような仕草を繰り返している。

「とにかく、二人ともここにいてはダメだ。一旦抜け出さなくては」
和久は彼女を助け起すと岩屋の前から離れようとするが、何かに阻まれるようにそこから後ろに動くことができない。
「これは…どういうことだ?」
「先にこの…白いものを何とかしないとダメなようね」
「やはり、ここに何かいるのだな」
そこで初めて彼女は、この靄が自分にしか見えていないのだということに気付いた。
「ええ、恐らくこれが…」
彼ら瀧澤家の当主たちが鎮めなければならないと伝えられてきた、新月の夜に現れるという御霊たちの邪気なのだろうが、そういった力を持たない彼には見ることは叶わないのだ。
そうこうしているうちに、二人に向かって再び靄が襲い掛かってくる。
「危ない」
それを見た聖子は、咄嗟に和久を突き放すと、無意識に頭上に向かって両手を翳した。そして、今までしたこともないような複雑な形に指を組み上げると、天に向かってそれを突き出し、静かに呪文を唱え始める。すると、指先から薄淡い光が放たれ、それが向かってくる靄を散らしていった。
「一体何を…」
思わず側に寄ろうとした和久を聖子が、否、彼女の中の別の人格が一喝した。
『邪魔立てするな。そなたは離れておれ』
それを聞いた和久は、突然金縛りにあったように動くことができなくなる。
「まさか、蒼焔の巫女姫…か?」


辺りには急に激しい雨が降り始め、松明や火炉の炎までもすべて消し去ってしまった。

漆黒の闇の中で対峙する、荒ぶる御霊と古の巫女。
両者とも、一歩も退かない攻防を繰り広げていたが、和久がその様子を見ることはできない。彼にできることは、降りしきる雨にずぶ濡れになり、時折苦悶の表情を浮かべながらも、一点を見据えて呪文を唱え続ける聖子の姿をただ見守ことだけだった。
と、突然彼女が何かに身体を突かれたように後ろによろめいた。
「聖子君」
たまらず和久が彼女の名を叫んだちょうどその時、一筋の稲妻が暗闇を切り裂いた。
眩いばかりの閃光、低い轟音とあたりを揺るがす地響きに、思わず彼は手で顔を覆った。そしてそれが収まったとき、彼の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
「御神木が…」

祠の前に聳え立っていた老巨木が、落雷で真っ二つに裂けて炎を上げている。
だが、驚くのはそれだけではなかった。
裂けた幹の間から、炎の赤をもしのぐ光が零れ出していたのだ。
その光はやがて目が眩むほどの輝きを放ち始めると、ゆっくりと木の中から浮き上がっていく。

「あれは…まさか?」
暗闇に浮いた青白い光が輝きを放ち辺りを照らし始める光景を、和久は瞬きもできないままただ驚愕の表情で見つめていた。




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