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蒼き焔の彼方に  39


翌朝早く、聖子は身体に感じる揺れで目を覚ました。
ぼんやりとしながらあたりを見回すと、ちょうど和久が寝室を出ようとしているところだった。
「どこに行くの?」
背後からの呼びかけにこちらを振り返った彼が、聖子の方に戻ってきた。そして彼女の前髪を指でかき上げると、露になった額に軽く口づけを落とした。
「君の分の朝食を準備させないと。連絡をいれておかなければ、いつも通り一人分しか出てこないだろう」
予期せぬ和久の行動に、どぎまぎしながら彼女はこう答えた。
「あ、いいです。私一旦家に戻って着替えをしてから出社しないといけないから」
そして起き出そうとした聖子は、今更ながらに自分がパジャマはおろか下着も身につけていないことを思い出す。
「そういえば、下着。下着はどうなりました?もう届いたんでしょう?」
慌てて肌蹴たシャツの前をかき合わせる彼女を見ながら、和久は首を振った。
「まだだ」
「えっ、何で?」
「時間を見てみろ」
寝室にある時計は5時25分を指している。

「考えてもみろ。こんな時間に空いている店など、このあたりには1軒もない。車で隣の市まで行けば、24時間営業のコンビニがあるし、ホテルの中の売店にはそれらしいものもあるにはあるが…」
「だったら…」
「この時間にそんな個人的なことを依頼できるのは、秘書の関口くらいだが、幾らなんでも、あれにそんなことは頼めんだろう」
確かに、あの堅物に見える男性に、女物の下着を調達して来いとは言いづらい。そこで聖子ははっとして和久を見た。
「じゃぁ。誰に頼んだの?『下着』なんて」
「心配しなくても、ホテルの従業員の若い女性に頼んだ。早番の彼女が出社してくる時間、確か7時だったと思うが…一緒に届けてくれるはずだ」

和久がそんなものを必要とするということは、それなりの関係だと思われても仕方がない。もちろん、誰が使うかなどと、彼は絶対に言わないし、頼まれた従業員も敢えて聞くことはないだろう。
それでも替えの下着が必要な状況になったなどということを他人に知られたことは、例え自分のことだとその女性に分からなくても、それはそれでまた恥ずかしい気もするが、少なくとも関口が人目のある場所で、彼女の穿くパンティを持ってレジに並ぶことだけは避けられたようだ。

「でも、それまで私はどうしたらいいの?」
「そのままの格好でいるしかないな」
「それはちょっと困るんだけど」
彼の言う時間ならば何とか一度家に戻っても遅刻しないで出社できそうだが、このまま下着なしで過ごすのは、たとえ一分たりとも嫌だった。
「なら、それまで何か代わりになるものを貸して」
「そう言われても、そんなもの、ここにはないんだが」
「それ、あなたの着ているそのトランクスでいいわ」
聖子はそう言うと、彼が穿いているボクサーパンツを指差した。
「これか?」
「そう、それなら少々大きくても私にも着られるわ」

「そうか、なら仕方がないな」
和久はそう言うと、突然腰をかがめてウエストのゴムに指を掛けた。
「ち、違うってば。何も今穿いているのを脱いでくれって言ってないわよ。それと同じものがどこかに1枚くらいあるでしょう?この際新品を出せなんて言わないから、洗濯してあるものを貸してちょうだい」
「冗談だ。本当にこれを脱いでよこすと思っていたのか?」
にやりと笑いながら、顔を反対側に背けた彼女を一瞥した彼は、クローゼットの扉の中へと消えていった。
「うそ、何て性格悪いのよ、まったく」
真っ赤になった顔を掛布団で隠すようにしながらそれを見送った聖子は、ブツブツ文句を言いながらも、彼が戻ってくるのを待っていた。このスカスカ感を払拭できるのなら、少々意地悪くされても我慢できる。

「ほら、これでいいのか?」
彼から受け取った男もののパンツを布団の中で穿いた彼女、はやっと人心地ついたようで思わず安堵の息を漏らす。
その様子を見ていた和久に哄笑されたが、パンツ一枚穿いたことで、今なら彼の態度も許せる余裕が出てきたようだった。



彼の部屋のシャワーを借りた後で、クローゼットの扉に作りつけられた鏡に全身を写し、シャツで何とか大事な部分は隠れていることを確認した聖子は、待っていた和久と共にキッチンに向かって廊下を歩いていた。
「ところで質問なんだけど」
前を歩く和久の背中に、昨日から疑問に思っていたことをぶつけてみる。
「あの地下の…お墓?霊廟って言ったかしら、あそこに葬られた人はみんな、その…」
彼女の言わんとした事を察した和久は立ち止まり、溜息をつきながら肩を竦めた。
「ここで、こんな格好で朝からその話か」
「嫌なら別に今聞かなくてもいいんだけど」
「いや。まぁ、いずれはどこかで話をしなければならないことだから…今話そう」

こうして朝食の準備されたテーブルで、周囲に誰もいないことを確認した和久は徐に話し始めた。


瀧澤家がこの地に入ってから数十年後、今の霊廟の基となる、地下の埋葬墓が造られた。
記録では、5代目当主の頃のことだ。
それまでは古くからの慣習で、瀧澤家も山中の墓所への土葬が行われていたが、ある時、大雨で流出した墓を修復に行った者が、その中に信じられないものを見つけた。
「墓に葬られた死体が、数年経ってもそのままの状態で、腐らずに土砂に埋もれていたというんだ」
当時の棺はもちろん木製。長年土の中に埋められていたせいで周囲は完全に朽ちて崩れていたというのに、中に安置された遺体は、流出時の破損と土砂の汚れ以外はほとんど無傷の状態のままで残っていた。
念のためと確認してみると、埋葬されたその他の当主たちも、同じ状態で地中から掘り出されたのだ。

「そこで、村人の間に囁かれ始めたのが、謀殺されたという『巫女の呪い』だ。」
「それが、巫女の呪い?」
「ああ。蒼焔の巫女姫は、死の間際、何かを強く願いながら生きたままその身を炎に焼かれて息絶えたと伝えられている。それを聞き届けた竜は神の使いで、巫女の瀧澤に対する怨念を一身に背負いながら、空高く昇って行ったと言い伝えられているんだ」

息をしていないにも関らず、あたかも時間が止まったかのように腐らない体。同時にその魂も浄化されることなく永遠に留まり、この世を彷徨い続けるという。それはすでに死を迎えた者にとっては、終わることにない責め苦以外のなにものでもない。
それらの霊たちの失望や焦燥を鎮めるのも、瀧澤家の当主に課せられた務めの一つでもあった。

決して朽ち果てることのない体。その呪われた秘密を外に知られないために、瀧澤家は敢えて人目につかない場所、即ち地下に代々の当主の墓所を構えた。あそこが今のように霊廟として整備されたのは、明治時代になってからのことだ。
入口のカムフラージュのために、一部分だけ地上階もある倉庫や書類庫それに美術品などを収納する宝物庫に改装し、奥にある霊廟には幾重にも施錠して、通常は入れないようになっている。
だから昨日、なぜ鍵を持たない聖子が難なく易々とあそこまでたどり着けたのかが、未だに彼には納得いかなかった。


「巫女の怒りを鎮められるのは、行方の分からない巫女の珠玉だけ。あの珠を見つけ出し、元あった祭壇に奉ればそれが叶うと…瀧澤家では伝えられていた」
しかし昨夜、加津沙はそれに疑問を投げかけた。その答えを見いだせない間は、まだ当分聖子には黙っているつもりだった。
「でも、博物館に展示してある巫女の珠玉はレプリカで、その『元』になるものは瀧澤家の宝物庫にあるって、前にサダさんが…」
「レプリカの元も偽物だ。本物は砦跡に建てられた屋敷が燃え落ちたときに紛失したまま、今も所在が分からない。これは代々の瀧澤家の人間しか知らないことだ。おばば様が知らなくても不思議はない」
そういう意味とは別に、以前聞いたサダの言葉に何か引っかかるものを感じた聖子だったが、それが何なのか、この時はまだよく分からなかった。

「もしかしたら、攻め込まれた際に、巫女が咄嗟に、どこかに隠したのではないかと疑っていたが…」
昨夜話した時には、巫女は本当にその行方を知らないようだった。ましてや、『呪いなど掛けた覚えがない』とまで言い切ったのだ。もしそれが本当なら、今まで瀧澤の人間が信じてきた話は根底から覆されてしまう。

「でも、その屋敷が燃えた時、加津沙は…巫女は一人ではなかった…と思うのだけど」
「そうだ。その時には彼女が産んだばかりの子供が一緒にいたようだ。だが、その子も巫女姫の死後、行方知れずになってしまった。恐らくは母親と一緒に焼け死んだのではないかと言われている」
古の出来事でありながら、彼が言葉の端に無念を滲ませるのは、その子の父親であり、和久の祖先である喬久の記憶故のものなのか。
「ううん、そうではなくて。その赤ちゃんと、もう一人、そこにいたのよ、別の女の人が」
「別の女?」
「そう。で、その人と託された赤ちゃんが、加津沙が焼け死んだ後に…青白い霞みたいなものに包まれて、空に昇っていったのを…視たのよ、私」
「視たって?」
「ええ。あの山の中で迷った時、岩屋の…祠の前で」
「その女とは一体誰なのだろう?分からないのか?自分の子供を預けたくらいなら、巫女姫は分かっているはずだが」
「それは…」
聖子は一瞬言いよどんだ。
加津沙が今まで彼ら、瀧澤の人たちに告げられなかったことを、自分が話してもよいものか迷ったからだ。
和久たち瀧澤家の人間と違い、巫女の生まれ変わりには、転生するたびにその記憶を残し伝えられることはなかった。
ただ、皆一様に、何かに取り憑かれたかのように、本能的にこの地に帰ろうという意識が働いただけだ。だから聖子自身もずっと自分のことに気がつかなかったし、多分これまで生まれ変わった者たちにも巫女は敢えてそれを気付かせようとはしなかったのだろう。

「知っているなら教えてくれ。それは誰なんだ?」
『常葉だ』
彼女が心を決める前に飛び出した言葉に驚いた聖子は、思わず自分の口を手で覆った。
「常葉…あの、風守を裏切ったと言われる術師か?」
聖子は口を手で塞いだまま、小さく頷いた。

和久は気付かなかったようだが、口調からして彼の問いに答えたのは、彼女自身ではなく、加津沙だ。聖子には、巫女がなぜか彼にそのことを教えたがっているように思えた。
なぜ彼女はそんなことを考えたのか、巫女を内に抱えた聖子にもそれは分からなかった。




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