BACK/ NEXT/ INDEX



蒼き焔の彼方に  31


引越しを終えた翌日から、聖子は新しい職場に出勤した。
再就職先に関しては、とりあえず問題なく決まった。というのも当面、療養中で復帰の見込みが立たない佳奈の後釜に座ることになったからだ。
和久は荷物が片付くまでゆっくりしてはどうかと言っていたが、何もせず彼に食べさせてもらうようなことはできない。 というのも借家は社宅扱い、車も通勤と外回り用に一台専用で宛がわれ、仕事もしないうちからそれらを当たり前の顔で使うのは気が咎めるたからだ。
そして何より、来て早々、彼に借りを作ることを自分のプライドが許さなかった。


聖子に社宅として用意された住居は、築30年は経っていると思われる古い一戸建ての借家だった。部屋が3つにキッチン、風呂、トイレが付いていて、外には小さいながらも庭と車1台分のカーポートもある。
長年都会の小さなワンルームマンションに暮らしてきた彼女には、独りで住むには大きすぎるようにも思えたが、このあたりでは借家はこれが当たり前なのだそうだ。
車は通勤用として当面和久の会社が所有している軽自動車を借りられることになった。
学生時代に免許を取ってからというもの、書き換えだけをしていたペーパードライバーの聖子は、止むに止まれぬ状況で運転をすることになった。田舎は車がないと通勤はもとより、買い物一つとっても不便だからだ。
以前佳奈が「コンビニもない」とこぼしていたが、住んでみると確かに不便さを実感できる。何せ、歩いていける範囲にはまったく店舗と呼べるものがなかった。
一番近いスーパー複合施設まで車で約15分。
それでも人口の割りに大きな店がやっていけるのは、やはりバックに瀧澤の威光があるからだろう。

いろいろと調べてみれば、この地域全体が何だかの形で瀧澤家の恩恵を受けていることが分かる。佳奈が入院している病院にしても、それを運営している医療法人は瀧澤の系列だ。そのお陰で、小さな町に分不相応にも思えるほど設備が充実した総合病院が建てられ、今では近隣地域の中核病院のポジションにまで押し上げられていた。
ご他聞に漏れず、周囲の市町村は過疎化が進んでいるようだが、この辺り一帯は寧ろ宅地化が進んで若年人口が増えてきているらしい。それも瀧澤グループが若い世代の雇用を生み出しているからだと聞いた。



「でも、どうして彼はここから拠点を移そうとはしないのかしら?」
新しい職場で、簡単に仕事の説明を受けたあと、聖子は一息いれながらそう思った。説明によると、瀧澤グループは東京本社として一部の本社機能を移管してはいるが、重要な決定事項は和久によってほとんどここで行われているようだった。
会社の規模や経営戦略から考えても、彼自身が東京にいることが普通のように思えるが、彼はこの地から動いたことがない。彼女の目にはそれが不思議に写った。


再就職してから1週間ほどはほぼ仕事のレクチャーで終わり、聖子は退社時刻ぴったりに勤務先から追い出された。外に出るとまだ日が沈んだばかりで、周囲は薄明るい。
「こんなこと、前の職場では年に数回もなかったわよ」
だからといって、何もない田舎では、どこに寄り道することもできないけれど。
そう考えた聖子は、思わず笑ってしまった。
引越しの荷物はまだダンボールに入ったままだ。接続工事が間に合わず、ネットも繋げていないし、DVDも本体を箱に詰めたまま放置している。時間はあってもそれらが片付くまで、当分何もできないだろう。
「そうだ、まだ早いから、佳奈のところに寄ってから帰ろうかな」

聖子はこちらにつくと真っ先に、まだ入院中の佳奈を見舞った。
まだ完全に復調するには時間がかかりそうだが、それでも以前に比べると彼女は格段の回復を見せていた。
引越しの荷物が届くまでの短時間の見舞いだったので、ほとんど話らしい話はできなかったが、佳奈の声を聞いた時には心底ほっとしたものだ。
それから数日、ほぼ毎日病院に通って見舞っている佳奈の顔色も日を追うごとに良くなっているように思えた。
「聖子、意識がない時にも来てくれていたんでしょう?何となく分かったんだ」
寝たきりになっていた間の記憶が混濁していて、今でもはっきりとはしていないと聞いている。そんな状況であったにも関らず、佳奈が自分の存在を感じてくれていたことに、聖子は嬉しさを覚えた。
「家族にも会ってちゃんと話した。多分大丈夫だと思う」
佳奈の病状から先延ばしにされていた家族への連絡もすでに済んでいた。両親が駆け付けてきて佳奈と対面し、名木の紹介もしたという。
「瀧澤社長がかなり骨を折ってくださって、お陰でお目玉一発で勘弁してもらったわ」
両親にしてみれば、娘が体調を崩していたことを知らされなかったことは納得できないことだろう。そこを何とか丸く収めたのが連絡の仲介の労を取った和久だったのだ。
「瀧澤社長って、何か相手を納得させる雰囲気を持っているのよね、不思議と」
それは単に威圧的なだけだろうと突っ込みそうになった聖子だったが、その場ではひとまず話を合わせておいた。和久に対する彼女の心酔ぶりを見て取ったからだ。
否、佳奈だけではない。
この辺りに住む住人のほとんどは彼を尊敬の眼差しで見ている。まるで昔の領主か何かに対するように、和久の発言は重みがあり、ある種絶対的な権力者として崇められているようにさえ感じられた。
「時代錯誤な感じが、しなくもないけれどね」

聖子が病院に着いた時、ちょうど佳奈は食事の真っ最中だった。
一時は何も食べることができず点滴で存えていたことを考えると、箸やスプーンでものを口に運んでいる姿を見るのは何とも嬉しい。

「来週あたり、そろそろ大部屋に移ろうと思うの」
食事を終えた佳奈は、側の椅子に座る聖子にこう話しかけた。
「もう普通に食事もできるし、夜中に発作を起すようなこともなくなったし。それにこのお部屋…個室だから結構高いのよ」
「でも、今までもずっとここだったんでしょう?それはどうしてたの?」
「あ、今までは社長が出してくださっていたのよ。でもいつまでもそんなに甘えていられないし」
「ふーん、瀧澤社長がねぇ」

この一週間ほど、聖子は間近で和久の評判を見聞きしてきた。
確かに仕事には厳しく容赦がないが、公私のケジメはしっかりとつけているし、何より部下をまとめる統率力には目を見張るものがある。
ただ、常に厳しいだけではなく、周囲に対する気遣いも忘れないという姿勢には、気に食わない相手ながらも感心することもあった。
「いいところがあるのよ、社長にも。聖子も認めなさいよ。あなた、意識的に社長を嫌って避けているでしょう?私が気づかないと思ってた?」
「そんな、私は別に…」
言い当てられた聖子は狼狽した。
確かにこちらに来てからというもの、できるだけ彼の側に行かないように気をつけていた。ただでさえ、彼女の中にいる人物にはいろいろと因縁がある土地なのだ。それを誘発する要因の一つでもある瀧澤の当主には近づかない方が無難だろうと思ったからだ。

「まぁ、ここにいればどうしても瀧澤家に…社長に関らずにはいられなくなるだろうけど。彼に言わせれば、社長は絶えずあなたを目で追いかけているそうだから」
「もう、名木さんったら余計なことを」
佳奈のからかいの言葉に、聖子が渋い顔をする。

「あ、そういえば、来週書類の整理をしに地下の倉庫に行くことになったんだけど」
聖子の言葉に、佳奈が突然顔を強張らせた。
「行くの?あそこに」
「ええ。どうしても必要な書類があって。大丈夫、誰かと一緒だから」
それを聞いた佳奈は、少し安心したのか表情を緩めた。
「気をつけてね。一人では絶対あそこに近づかないで。私はそんなに勘がいい方ではないけれど、入った途端に嫌な感じがしたのよ。気のせいならいいんだけど」
「ありがとう。そうするわ」



佳奈を安心させるためにそう言ったものの、結局聖子は一人で倉庫に行くことになってしまう。
それを知った和久がすぐに駆け付けたが、すでにその時、彼女の身に異変は起き始めていた。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME