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蒼き焔の彼方に  30


和久の手前、大見得を切ってはみたものの、それからも聖子はしばらく会社を辞めることができずにいた。

退職の申請が急だったためか、なかなか彼女の仕事を引き継ぐ後任が決まらなかったせいもあるが、例の一件についての噂がまったくといってもいいほど出てこなかったから、ということもある。
社長と、社主の前であれだけの申し出を一蹴したのだ。さぞかし面白おかしく尾ひれをつけて吹聴されるかと覚悟をしていた聖子だったが、社内に緘口令でも敷かれているのかと疑うほど、だれもあの出来事に触れようとする者は現れなかった。
社長をはじめとする役員や部長職クラスの人たちは恐らく知ってはいるのだろうが、何も言われなかったし、その下の人間には伝わってさえいないようなのだ。

「ちょっと予想外だったわね」
もちろんありがたい方に、である。
いくら他人との接触を嫌い、仲の良い同僚を作らないようにしていたとはいえ、もしあのことが噂に上れば職場での居心地が悪くなることは間違いない。そうなればもっと退職を急ぐしかなかっただろう。
彼女のように一人暮らしをする平凡なOLが突然職を失うことは、一歩間違えればすぐに路頭に迷うことにもなりかねない。幸いなことに、贅沢とは無縁な生活を送ってきた聖子には、それなりの蓄えがあったが、それでも少しでも長く給料をもらえれば、それだけ楽に食べていくことができることには変わりないのだ。

「帰ってみようかな、家に」
いよいよ会社を辞する日が近づき、有給を消化することになった聖子は、空白になったスケジュールを眺めながらふと思った。
高校卒業後に上京してから約7年。
その間実家には数えるほどしか戻らなかった。しかもそのほとんどが日帰りという慌しさだ。
もちろん、今帰ったとしても既に彼女の居場所はなく、誰も歓迎してはくれないだろう。それでもこの機会に一度、家に帰って私物の整理を済ませておきたくなったのだ。
「確か美郷が、私のものはほとんど倉庫にしまってあると言っていたわよね」
彼女が高校まで使っていた部屋は家の改装とともになくなり、今は確かリビングの一部になっているはずだ。家を出る際に必要なものは持ち出したし、不要品はできるだけ処分したつもりだったが、それでも結構残ってしまったものがあり、置き場のなくなったそれらの物は庭の倉庫に放り込まれたようだった。

カレンダーを確認すると、有給は翌日から月末まで、土日を除いて約2週間ある。その間のどこかで家に戻ることに決めた聖子は、できるだけ家族と顔を合わせずに済むように平日を選び、帰ることを妹にだけメールで伝えた。



「お姉ちゃん、久しぶり」
妹の美郷と会うのも数年ぶりだ。確か昨年大学に入ったと聞いているから、今は2年生になっているはずだ。
前回会った時にはまだ高校の制服姿だったのに、数年で見違えるように垢抜けて、綺麗になっている。
「本当にね」
聖子は妹に勧められたが家には入らず、直に庭においてある物置へと向かった。
「この辺りの箱がそうだと思うよ」
奥のほうに積み上げられたダンボールを引っ張り出しながら、美郷が留めてあったガムテープを剥がして中を確かめている。
「1、2…全部で4箱かな」
渡された箱の中身を一つずつ確認した聖子は、ほんの一握りの必要なものだけをそこから取り出すと、再び箱に蓋をする。

「悪いけど、これを全部処分してくれる?もう必要のないものばかりだから」
箱の中には数年前、彼女がこの家を出るときに残した僅かな衣料品や日用品が入っていた。その時にはまだ、もしかしたらここに帰ってくることがあるかもしれないと考えていたのだろう。しかし実際にはこれを使う機会は一度もなかったのだが。
「えっ?いいの?まだ新しいものも入っていたと思うけど」
確かに新品の服や下着もあるが、買ってからすでに何年も経過しているし、箱の中に入れっぱなしだったせいで染みができていたり、黄ばんだりしていて、とても使えそうにない。
「いらないわ。ゴミに出してちょうだい」
そう言うと、聖子は自分が取りだしたものだけを紙袋に詰めて立ち上がった。
「あ、でもこの中の写真は…」
箱の中には数冊のアルバムも入っていた。中にはもともとあまり写真が好きではなかった学生時代の聖子が写った数少ない写真も収められている。
「いいの。もう湿気て黄ばんでいるし、持って帰っても置く場所がないから」
「本当に持って行かないの?」
念を押す美郷に、聖子は頷いた。
「それから…これ」
聖子は下げていたショルダーバッグを探ると、中から小さな包みを取り出して妹に差し出した。
「何?」
「大学の入学祝も成人式のお祝いもしてあげられなかったから」
そう言って渡したのはかの有名宝石店の白いリボンがかけられた青い箱だった。
「好みに合わなければ売るなり好きにしていいわよ。大したものではないけれど」
「ううん、大事にするよ。ありがとう」

箱を開けた妹の笑顔を見た聖子は、何となくこれで一つの区切りがついたように思えた。
あまり良い思い出ばかりではない町だったが、それでも彼女にとってここが唯一故郷と呼べる場所だ。だが、月日は流れ、いつの間にかここも自分にとっては安住の地ではなくなっていた。
もしかしたら、自分でも無意識のうちにそれを確認するために、わざわざ帰ってきたのかもしれない。



結局家の中には入らず、駅で美郷に別れを告げた聖子は、東京に向かう新幹線に乗った。
恐らくもう二度とここに戻ることはないだろう。
彼女は、最後に妹から無理やりに押し付けられた一枚の古い写真をバッグから取り出した。まだ何とか家族が形になっていた、自分が子供の頃の写真。妹は1歳にもなっていない時だろう。
聖子は感慨深げにそれを眺めると、大きく息をついた。
懐かしいと思うには、あまりにも蟠りがあり過ぎた、自分が子供の頃から学生時代を過ごした土地。
だが何となく、今回が最後の見納めになるのではないかという寂寞とした思いに捕われた。

これから自分が戻るのは、自らの意志で選んだ場所。
そこには多種多様な人が暮らしている。
だからこそ、自分の普通ではない能力を隠すのには都合が良いと思った。
他人に無関心な都会では、自分を振り返る者は誰もいない。
例え彼女が呪われた力を持っていたとしても。


新幹線から降りた聖子は、人混みの中、目の前に立ちふさがった人物に冷ややかな視線を送った。
「まるで計ったように現れるのね。あなたには、何でもお見通しなのかしら?それとも『飼い犬』に後をつけさせたとか?」
「相変わらず手厳しいな」
見据えられた和久は、悪びれることもなく唇に薄く笑いを浮かべると、肩を竦めた。
「どこに行っても、私は必ず君の居場所を探し出す」
「そんなことをしなくても、逃げも隠れもしないわ」
いく宛てもないし、と彼女は小さな声で付け加えた。
「ならば、私の住むの町へ…聖域のある場所へ来ればいい」
「何でそんな所に私が?」
「あそこなら、君の身に何かあってもすぐに対処できる」

あなたにお守をしてもらう必要はない。聖子はそう言い返そうとして思いとどまった。
恐らく、どこにいても彼は自分を追い続けるのだろう。そして彼女の就職先に手を回し、何だかの障害を仕掛けてくるかもしれない。
今のままだと行く先々まで監視されているようで不愉快だし、どのみち職が決まらず家賃が払えなくなれば、いつかは今住んでいる部屋も引き払わなければならなくなるのだ。

「あそこに行けば、少なくともあからさまな監視はされないってことね?」
「可能な限りは控える」

どこに行っても同じことの繰り返しをするくらいならば、いっそ彼のテリトリーの内側に入り込んで切り崩した方が、動き易いかもしれない。だが、それは同時に完全に彼に主導権を握られてしまう可能性も孕んでいる。

「もうしばらく考えさせて」
「長くは無理だ。そうだな、あと1週間」
「短すぎるわ」
「1週間だ。それ以上は譲れない」
あと10日ほどでまた、次の新月の日が訪れる。和久はそれまでに何だかの決着を着けるつもりでいた。

「…分かったわ」
不満そうではあったが、聖子は渋々了承した。
そして1週間後、彼女は東京を引き払う決意を彼に伝える。
こうして『巫女』は、運命に引き寄せられるかのように、かつての自分の生まれ故郷に戻ってくることになる。




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