アパートに舞い戻ってから数日は、自分でもおかしいくらいに神経が過敏になっていた。 朝、会社に出かけるときに玄関で外をチェックして、不審な人がいないかを確かめてからドアを開けた。いつもよりも慎重に鍵をかけたにも関らず、何度もノブを引いてロックしてあることを確認しないとその場を離れられなかった。 電車に乗る時には周囲を見回してできるだけ混み合わない車両に乗るようにしたし、駅から会社までの数分は車道のから離れた端を歩くようにもした。 誘拐されるような身分ではないとは思いつつも、どうしても気を抜くことができなかった。 一体自分は何にこれほどまで怯えているのか。 答えは一つ。 和久の、彼女への執着ともとれるような行動だった。 あの一件以来、彼には何かにつけて彼女を手元に引きとめようとする意図が見え隠れしていた。ともすると束縛ともとれるような行為や発言を、さほど親しい間柄でもない和久が平気でしようとすることに、聖子は戸惑うと同時に恐れすら覚えた。 それもあって、最後まで彼と向き合うことなく逃げるように立ち去った自分を、和久が追ってくるのではないかという強迫観念に付きまとわれていたからだ。 だが、2日経っても3日経っても彼が姿を現す気配はなかった。 相変わらず周囲の気配をうかがい、会社と自宅の往復とコンビニ以外にはどこにも立ち寄らず、びくびくしながら暮らしていた聖子だったが、拍子抜けするくらいいつもと変わりない平穏な日々が続いた。 そして金曜日。 やっと週末になったが依然として何事もなく、あれは単なる自分の思い込みだったのかと思い始めた矢先のことだった。 「東君、すぐに社長室に行ってくれ」 直属の上司である係長ではなく、総務課長から直々にそう言われた聖子は、驚きに目を丸くした。 「社長室ですか?あの、何で私が…?」 「詳しいことは私にも分からんのだが、上の方から連絡があった。恐らくは人事関係の話だとは思うが」 この場合、課長の言うところの「上」とは恐らく部長か役員のことだろう。 「はぁ…」 訳も分からず急き立てられるようにしてオフィスを出た聖子は、首を捻りながら階段を昇り、役員室のある上階に向かった。 彼女が勤めるこの会社は、従業員100名ほどの、いわゆる中小企業だ。そのうちの8割を営業、営業事務が占めていて、残りの2割で経理や庶務を兼ねた総務などその他の部署をこなしている。社屋も自社ビルではあるが小ぢんまりとしていて、さほどの大きさではないため、エレベーターに乗らなくても行き来に不都合はない。 それでも滅多に入る機会のない社長室の前に立った時にはさすがに緊張した。 「失礼します」 ノックをして声をかけるとすぐに中へと招き入れられた。 ドアを入ってすぐ、右側に社長のデスクがあり、左手奥には来客用の応接セットが置かれている。 「ああ、東君だね。こちらへ…」 衝立で遮られた応接のソファを後ろから回り込もうと足を踏み出した聖子は、一瞬その場に凍りついた。 そこにいたのは、今彼女が最も会いたくない人物だったからだ。 「な、何であなたが…」 「ああ、紹介しよう。この方が新しい社主となられた瀧澤氏だ。といっても君たちは既知の間柄らしいが」 「し、社主?」 「我が社は瀧澤グループの傘下に入ることになったんだよ」 聞けば、聖子の勤める会社が瀧澤に買収され、それに伴い瀧澤の資本が入ることになったという。ただ、合意した内容では、オーナーが代わるだけで実質は何も変わらず、経営は現体制のまま続けられるらしかった。 ここ数年、不況の波に押されて低迷を続けていた経営状態から推測するに、大資本のグループへの編入話に、社長は一も二もなく飛びついたのだろう。 「それで、瀧澤氏からの要望で、君には瀧澤本社へ転籍してもらうことになった。暫くは主にこちらとの連絡担当になるようだが…」 和久に阿る様に話す社長の目に下世話な勘繰りを感じた彼女にとって、今自分が置かれている状況は屈辱以外の何者でもない。 「お断りします」 聖子は語調を強めて社長の話を遮った。 「本人に了解なく、勝手にそのようなことを決められても困ります」 それまで悠然と彼女の様子を見ていた和久が口を開く。 「条件的に悪い話ではないと思うが。高々グループ内の移動だ。スキルアップに繋がるし、何より能力に見合った大幅な昇給も考えている」 「お金の問題じゃありません。いいからあなたは黙っていて」 「君、そんな失礼なことを」 憤慨して瀧澤に食って掛かる彼女の様子に、社長が慌てて懐柔を図る。 「他の人選も考えたんだがね、是非に君をと、瀧澤氏からのお申し出だったんだ。グループの総帥から直接の指名を受けるなんて、名誉なことだと思うのだが…」 「お断りします。お話はそれだけですか?でしたら、仕事中なので失礼いたします」 聖子はさっと立ち上がり一礼すると、社長の制止を振り切ってそのままドアから飛び出した。 そして廊下を突っ切り、外付けの非常階段へと続くドアを開ける。 「どこまで付いてくるおつもり?」 聖子は背後に忍び寄る気配にも振り向くことなく、ビルの谷間にある階段の狭い踊り場から空を見上げた。 「なぜ私を避ける?」 体から放たれる熱で彼がすぐ後ろに立ったことを感じたが、それ以上距離を詰めてくることはなかった。 「関わり合いになりたくないから」 そう答えた彼女は、背中に痛いほど彼の存在を感じながら、まだ心の中で自問自答を繰り返していた。 なぜ、これほどまでに彼の存在が脅威に感じるのかが自分でも分からなかった。今までならば自分を脅かす存在を無視すれば済んでいたのに、彼に対してはそれが利かず、どうしても意識が向いてしまう。だから必要以上に警戒心が強くなり、神経を高ぶらせて先ほどのような衝動的に自分らしくない行動もとってしまう。 そんな自分が歯痒くて仕方がないのだ。 それに、ましてや彼女の中に自分の全く知らない瀧澤家の過去に縁の人格が潜んでいることが知れた今、下手に和久に接することで、現在の自分が過去の人格に駆逐されてしまうのではないかという恐怖感すら抱いてしまう。誰よりも他人に思考を乗っ取られる怖さと屈辱を知っている彼女は、本能的にそれを回避しようとする行動に出てしまうのだ。 「仕事に関しては、そんなに難しい話ではないだろう。何も私の側付きになれと言っているわけではない」 彼にとってはそうかもしれないが、聖子には大問題だ。 和久の存在そのものが彼女の心の平穏を脅かすのだとしたら、彼女は四六時中それと戦わなくてはならないのだから。 「転籍の話はお断りします。この考えは変わりません。それでも、どうしてもとおっしゃるのなら…」 「どうする気だ?」 和久は興味深げに言葉の続きを待った。 「…ここを辞めます。この会社があなたのものになったというのならば、退職させていただきます」 「ほう」 腹の中から搾り出すような彼女の決断を聞いても、それを面白がるような反応しか示さない和久を、聖子は振り向きざまに睨み付けた。 「誰もかれもがあなたに尻尾を振ってついて行くと思ったら大間違いよ。私はあなたの言いなりにはならない、絶対に」 そういい残してドアの向こうに消える彼女の後姿を見送った和久は、口元を小さく歪めて笑った。 「なんとも勇ましいことだな」 そういえば、加津沙も彼に同じことを告げた。 『私は巫女。決してそなたの言いなりにはならぬ。僕たる私を生かすのは、神の言葉だけ――』 「これだけ長い時を経ても、まだ私にあの時と同じことを言うのか。本当につれないな…君は」 HOME |