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蒼き焔の彼方に  28


「それでは、どうか彼女のことをお願いします」
東京に戻る日の朝、病院でサダと向かい合った聖子は、深く頭を下げた。
「どうしても、ここに残ろうとは考えんのじゃな」
聖子は小さく頷くと、自分よりもはるかに小柄な老婆を見つめた。
「はい。私は…私にはあちらでの生活がありますから。それに…」
この地に来たことで、彼女は自分の中で何かが変わりつつあるのを感じていた。一体それが何であり、どんな作用を自分にもたらすのかを冷静に見極めるためには、感情が安定しないこの場から離れてみる必要があるように思えたのだ。
もっと正直に言えば、できるだけここから遠い場所に行ってしまいたかった。得体の知れない不安から逃げ出すためにも。
それは、和久と自分が因縁で繋がっていることを認めたくないという思いからくる抵抗だった。
いくら二人の過去が交錯していたとしても、それをそのまま今の時代の自分たちに当てはめることは彼女には到底容認できなかった。

「主殿…和久殿は何か仰せになったかい?」
サダの問いに、聖子は首を振った。
「あれから、ゆっくりと話をする機会がありませんでしたから」
ここ数日、和久は何か多忙な様子で、ほとんど顔を会わせることがなかった。それを幸いに、今朝も彼女は逃げるように彼の家を後にしてきたのだ。
今日ここを発つことは予め話をしてあったが、こんなに早い時間ではなかった。
朝も離れに彼がいないことを確認した上で、できるだけ周囲に気付かれないように帰り仕度を整え、簡単な礼を書いたメモを残して、誰にも何も告げずに自分でタクシーを呼んだのだ。
そのまま駅に向かうことも考えたのだが、どうしても最後に一目、佳奈の様子を見たいと病院に立ち寄った。そこで帰り際に、偶然ロビーでサダと鉢合わせたのだった。

「そうか。そういえば、新月が近かったな」
サダはそう呟くと、俯いたままの彼女を見る目を眇めた。
「お前様がそれでよいと思うなら、儂には何も言えん。じゃが、いつまでも目の前の難事から逃げ続けることができんことは、分かっておるであろうな」
それを聞いた聖子が身体を強張らせる。そんな彼女を見たサダは、皺だらけの顔に苦笑いらしきものを浮かべた。
「いずれ…いや近いうちに、主殿が動き始める。そうなれば、この辺りのものは誰もそれを止められん。それは儂も含めてじゃ。
お前様もそれまでに身の処し方を考えておくことが肝要じゃ。自分にとって、何が必要で何が不要か。それを悟らぬことには、ここであろうと余所であろうと踏みとどまれぬぞ。己が望む所へはな」
サダはそう言って諭すように聖子の腕を軽く叩くと、病院の中へと姿を消した。
その後姿を無言で見送りながら、彼女は安堵の息を漏らす。
サダに見つかった時には、てっきりここに留まるように、強く慰留されると思ったからだ。サダだけではない。和久や関口、それに名木さえも、彼女に対する対応が変わってきていることを感じざるを得ない状況だったのだ。
顔を見た瞬間にある程度の引きとめを覚悟した彼女には、サダの思いのほかあっさりとした反応には、少々拍子抜けしたくらいだ。

だがその安堵感とは裏腹に、病院を出てタクシーに乗り込んだ聖子は、少しずつ遠ざかっていく景色を眺めながら漠然とした不安を感じている自分に気付いた。

もう二度とこの風景を目にすることもないだろう。
そう思えば思うほど、この地の何かに留め置かれるように感じ始めていた。
そう、足に鉛の重石をつけられた囚人のように、ここを離れ駅に近づいていくほど身体も心もずんずん重くなっていくのはなぜなのか。

「きっと気のせいよ。だってここは…私には何の縁もゆかりもない場所だもの」

彼女は自分に言い聞かせるようにそう呟くと、山深い道の両側に続く風景から無理やりに視線を剥がした。
その山々の連なるはるか後ろ、聖域と呼ばれる深山を背にしながら。



こうして聖子は、再びいつもと変わらぬ日常に戻ってきた。
週明け、出社すると、彼女がいつも片付けている給湯室は使いっ放しのまま放置されているし、デスクの上には休みの間にたまった未処理の書類が山積みになっていた。
だが、いつもなら不満に感じるこれらのことが、なぜか彼女をほっとさせた。
やはり、自分はここにいて正解なのだ、と思わせてくれることなら、どんな煩わしいことでも歓迎できるような気がしたからだ。

加えて、毎日定期的に名木から入ってくるメールでは、佳奈の容態は急速に回復してきており、こちらの呼びかけに反応できるまでになったということだった。
一番気がかりだった佳奈の病状が快方に向かったことで、肩の荷が下りたように感じた聖子は、あの場所で遭遇したことのすべてを過去の出来事として自分の中で封じようとした。

一日を、決まった仕事をこなすだけで使い切る。
翌日も、またその翌日も同じように。
おかしなことだが、今まで何年も続けてきた、飽き飽きしていた単調な生活を送ることが、殊更重要なことに思えた。
朝起きて、鏡で見慣れた平凡な顔を確認した時、自分が自分であることがこんなに安心感を与えてくれるとは、今まで思ってもみなかったことだ。

自分の中に潜むものの存在に怯えながらも、こうしていくうちに、日常の忙しさに取り紛れ、あの数日間に遭遇したことが少しずつ過去のことに思えるようになっていくはずだった。
否、少なくとも彼女はそうなるように願っていた。
できることなら、もう二度とあの無力感は味わいたくない。


しかしその願いはある出来事によって脆くも崩れ去る。
それは予期せぬ形で再び彼女の目の前に姿を見せた、和久の出現だった。




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