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蒼き焔の彼方に  16


どこかでドアの開く音を聞きつけた和久は、読んでいた書類から目を上げた。
時間はすでに深夜、オフィスとなっている書斎には、彼以外にだれもいない。それを言うならば、この離れ自体ほとんど人気がなくなっている。こんな夜更けに物音がすることなど、いつもならば考えられないことだった。

ああ、そういえば、今日は客人があったんだな。

和久はデスクから立ち上がると、廊下側のドアに歩み寄った。
彼の書斎兼オフィスはL字型に建てられた離れの端にあり、一階が事務所、室内階段から上れる二階部分がプライベート・スペースになっている。この離れは各室庭園に面して一列に出入り口が作られているため、廊下に出ると聖子が宿泊しているゲストルームの入口が望める位置にあった。部屋の配置としては、ちょうど今彼のいる場所と聖子の部屋の前から続く廊下が交わるところにキッチンがあることになる。
こんな真夜中に、急遽何か必要なものでも出てきたのだろうか。
不審に思った彼は、ドアを開け、廊下に出てきた彼女の様子を棟のこちら側の端からこっそりとうかがっていた。


彼女は廊下に出ると一旦足を止め、辺りを見回した。そして、ある方向に目を留めると、そのままそちらの方に向かって歩き出す。

こんな時間に一体どこへ行く気なんだ?

和久は彼女に気付かれないように少し間を取り、足音を忍ばせて後をついて行った。聖子は誰に教えられたわけでもないのに、次々と廊下の角を曲がって先に進む。そして行き着いた先は、今は誰も住む人のない本宅へと繋がる長い回廊の入口に付けられたドアの前だった。
外庭とつながり、尚且つ日頃ほとんど使われることのないドアには厳重に鍵がかけられており、すぐに開くことはできないはずだ。この扉を開閉するには、和久が保管している鍵と防犯システムの解除が必須になっていた。
どうするのかとしばらく黙って見ていた和久だったが、聖子がドアノブに手をかけようとしたところで、遂に後ろから声を掛けた。

「それに触らない方がいい。下手に開けようとすると、警備会社が駆けつけてくるぞ」

彼女は和久の声に驚いたように一瞬びくりと身体を震わせると、ゆっくりとこちらを振り返った。
「瀧澤さん?」
まだ半分眠ったような緩慢な仕草と、戸惑いのうかがえる声を不審に思いながら彼女をまじまじと見た和久は、聖子がパジャマのままで上から何も羽織らず、なぜか足元も裸足でスリッパさえ履いていないことに気がついた。
今の時期、寝間着で出歩いても風邪を引くような気候ではないが、それでも彼女の姿はベッドから起き出して、そのままここに来たといっても不思議ではないくらいの乱れようで、何かをするために室外に出るようないでたちではない。

「何で私…こんな所にいるんでしょう、こんな格好で。それにここはどこ?私の部屋は?」
「ドアを開ける音が聞こえたから、私も外に出たんだが、君は自分の部屋から出るとキッチンではなく反対方向のこっちに向かって歩き出した。それでおかしいと思って後ろを付いてきただけだ」
「それじゃぁ私、あなたに連れ出されたわけではないんですよね」
「当たり前だ。いくらなんでも、私は若い女性の寝室を夜中に突然訪れるような非礼なことはしない」
「でも、寝る前に確かに鍵をかけたはずなんです。なのに、それを自分で外した記憶がなくて」
「残念だが私も君の部屋の鍵は持っていない。あの部屋のマスターキーは家政婦が持っているもの以外は金庫に保管してあって、私でも簡単には持ち出すことができないのでね」
「それじゃ何で私がこんなところにいるのかも…」
「分からない。こっちが聞きたいくらいだ」



眠りに落ちてから、ここで彼に声を掛けられるまで、彼女は自分が何をしていたのかまったく覚えていないようだった。ただ、施錠を外して自ら外に出たことだけは疑いようのない事実なので、余計に当惑している様子だ。

実際、彼女はあのドアを開けて回廊に出るつもりだったのか、それとも脇にある階段から庭に下りようとしていたのかは彼にも分からなかった。
ただ、彼女が部屋から出て、どこか目的の場所に行こうとしていたことだけは確かだ。
しかし、聖子がこの家に来たのは初めてで、自分が泊まっている離れはおろか、屋敷の敷地内の案内にも明るくない。うっかり外に出ても、迷子になるのが関の山だろう。第一に彼女自身、自分が一体どこに行こうと思ったのかが思い出せないというのも解せない話だ。
もちろん、彼女が目的を隠し、理由を偽っているとしたら、その限りではないが。


「あの…そろそろお部屋に引き上げてもいいでしょうか?」
夜着のまま、遣る瀬ない所作で非常灯の薄明かりに浮かぶ聖子の顔には、濃い疲労の色が浮かんでいるのが見える。
腕時計を見ると、すでに深夜の2時を大きく回っている。昨日は長距離の移動をこなし、恐らくは今日の朝一番から友人の枕元に詰めるであろう彼女の体調を考えると、少しでも睡眠を取らせることが必要に思えた。

「そうだな。とにかく今は部屋に戻って休んだ方がいいだろう。このことはまた明日にでも話そう」
「…ええ。わかりました。すみません、お騒がせして」
聖子は神妙な顔で頭を下げると、そのまま来た廊下を引き返した。だが、少し進んで分岐に差し掛かると、自分がどちらに向かって行けば良いのか分からなくなったようだった。
さっきはなんの迷いもなく、ここまでたどり着くことができたのに。

「こっちだ」
仕方なく、和久は彼女の部屋に戻る順路を先に立って進む。
その間、聖子は素直に黙って彼の後ろをついて歩いていた。
部屋の前まで来ると、彼は一度立ち止まって彼女を振り返った。
「多分もうなにも起こらないとは思うが…もし何かあったら私はあの突き当たりの部屋の二階にいる。ドアの鍵はあけておくから、下から大声で呼べば聞こえるはずだ」
彼は廊下のガラス2枚を隔てた向こうにある場所を指差した。
「私がここに立っている間に中に入って鍵をかけてくれないか?それを確認してから自分の部屋に戻ることにするから」
「分かりました、ありがとうございます。では、あの…おやすみなさい」
まだショックを引きずっている様子の聖子は、深々とお辞儀をすると戸の内側に消えた。程なく中から鍵を掛ける音が聞こえた。
彼は念のため一度外から戸を引いて、施錠を確認してから自室に引き上げる。
そして部屋の中に入ると、先ほどの聖子の間誤ついた様子を思い出した。
そこにいる理由を申し開くための演技にしては、あまりにも自然だった。だが、自覚と意識がないままで、果たしてあそこまでたどり着けるのかと考えると、到底無理な気がする。やはり彼女は何かを求めて自らあそこまで行ったか、そうでなければ夢遊病か何かを患っているかのどちらかだろう。
「一人にしておいて、大丈夫だろうか」
和久は再度彼女の部屋に引き返して確認しようかと考えてドアに向かいかけたが、途中で思い止まった。
たとえ今それを問うたにしても、この時刻、自分ができることは何もないに等しいことに気付いたからだ。彼は階段を見上げると、事務処理で凝った肩を何度か回しながら溜息をついた。
「では、そろそろ私も休むとしようか」


その時、もし彼が部屋の外に出ていたならば、窓の向こう、庭を越えた本宅のあたりに漂う多くの不思議な光を目にしたはずだ。
それは少しずつ溶け合い、一つになりながら、やがて一筋の光の帯となってこの離れへと向かって流れ始める。そしてそれが行き着いたのは、先ほどまで彼が立っていた場所、聖子が眠る部屋の前だった。




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