聖子は我が目を疑った。 自分が見ているのは一体何なのか。 そこにいたのは佳奈であり、佳奈ではない「もの」だった。 「いつ…からこんな状態に?」 戸口に立ち尽くしたまま、ベッドに横たわる友人を見ながら呆然としている聖子を促すと、和久は後ろ手に引き戸を閉めた。 「ほんの数日だそうだ。それに一昨日までは混濁してはいたが、まだ意識があった」 「そんな数日なんて短い時間で、こんなことになるはずがないわ」 彼女はベッドの側によると、震える手で佳奈の顔にかかる髪を払った。 現れたのはかさかさに乾いた皮膚。唇は色褪せ、頬がひどくこけていた。指を通した時に露になった髪の生え際は真っ白に変わっていて、明るい茶色に染めている部分がなくなれば、やがて全体が白髪となってしまうのかもしれない。 姿かたちは以前の佳奈のままなのに、一見すると急に五十も六十も年を取ってしまったかのような風貌に変わり果てているように見える。 だが、何かがおかしかった。 年を取ったにしては、肌には皺も弛みもない。ただ乾燥して骨に張り付いているだけのようだった。そう、まるで乾燥しかけのミイラのように。 「本人も始めはただの体調不良だと思っていたらしい。しかしどんどん身体の自由が利かなくなって、ここに運び込まれた時にはすでに自分では歩くこともできない状態だった」 和久は立ち尽くす聖子の背後から回りこむようにして、窓辺縁へと歩いた。今はブラインドが下ろされ、外光はほとんど遮断されている。 「でも、それならば私よりも先に佳奈のご家族に連絡をいれるべきではないの?」 この病室に彼女の家族が誰もいないことを見ても、彼が佳奈の親族に連絡を入れていないことは容易に推測できた。 「本人のたっての希望だ。君も知っているのだろう?彼女がここに来たいきさつを。どうしてもそれを家族に知られたくないということらしい。彼女も、名木もそれを望まなかった。それに…それ以外にもいろいろ理由があってね」 「ナギって?」 聖子は聞きなれない名前にそれを問い返した。 「ああ、名木には、君はまだ会ったことがないんだな。彼は彼女の…佳奈さんの恋人だ」 和久が顎で示す方を見た聖子は、その時初めて入口近くに若い男性が立っている姿を認めた。 「あなたが?」 「初めまして、名木と申します。あなたのお話は佳奈からいろいろとうかがっています」 年はそれほど自分たちと違わないだろうと思われる名木と名乗った男性も、無精ひげを生やし目は赤く充血していて、やはり憔悴の色は隠せない様子だ。 「医者も原因が分からずお手上げの状態です。あらゆる検査という検査はすべてしてみたものの、まったくどこも悪い箇所は見つからない。当面、栄養と水分を補給するしか手の施しようがないそうです。それでも衰弱が激しくて」 そう言って心配そうにベッドの上の彼女を見つめる。 「ならば尚更ご家族に知らせておかないと。この状態で、もしも佳奈に何かあったら…」 「それはない。今はまだな」 聖子は突然背後から聞こえた声に驚き、戸口を振り返った。すると、いつの間にかそこには以前資料館で会ったことのある老女が立っていたのだ。 「おばば様、お体は大丈夫なのですか?」 和久が尽かさず歩み寄る。 「心配無用じゃ。儂はまだ当分、くたばりはせんからの」 サダはそう言うと、和久が差し出した手に首を振り、杖に縋りながらもベッドに横たわる佳奈の側に近づいて来た。 「この娘さんは、おそらく身体にはどこも悪いところはない」 「ならばなぜ…」 「侵されているのはここじゃ」 サダは横たわる身体のちょうど心臓の辺りを指差した。 「心臓?」 老女は首を振り、再び佳奈の胸のあたりに手を遣った。 「いいや、『魂』じゃ」 「魂?」 聖子の疑うような眼差しに、サダは大きく頷いて見せた。 「考えようによっては身体の病気になるよりも、もっと性質が悪く、手強い場所じゃ」 「でも、魂って、心と同じようなものですか?だったら佳奈が罹っているのは心身症とか、うつとか、そういう類の病気なのですか?」 「いや。心が病んでいるというのではない。平たく言えば、とり憑かれているのじゃよ。それも、数え切れないほど多くの、過去の霊たちにな」 「とり憑かれてって…それでこんなことになるなんて、そんな非科学的なことがあるはずがないわ」 「じゃが、現実にはある。それ、お前様が目の前にしている娘さんがいい例じゃ。どこでそんなものを拾ってきたのかは分からぬが、生気を抜かれ続けていることは間違いない。 だからどこも悪くないのに、段々と身体が弱り、衰弱し続ける。今はまだ気力で持ち堪えているが、それが尽きた時が最後じゃろう。だがな、この娘さんは簡単には死なぬ」 「なぜ、そんなことが分かるんですか?佳奈は普通の女性なのに」 「いや、この娘さんは違う」 サダはそれだけ言うと突然一方的に話を打ち切った。そして佳奈の額に手を翳しながら何事かを一心に祈り、呟き始めた。すると、今まで息をしているのかどうかも分からない微かにしか動いていなかった胸が、一瞬大きく膨らみ、そして再び萎んだ。 「ふう、やれやれ。若い頃ならいざ知らず、今この婆にできるのはこれが精一杯じゃ。歳は取りたくないのう」 サダが勧められた椅子に腰を下ろすのと入れ替わりにベッドの側に立った聖子は、佳奈の唇が先ほどよりも少し赤みを帯びてきていることに気が付いた。 「あなたは一体何を」 「風の恵みを…森羅万象の施しを少し吹き込んだだけじゃよ。大して治癒にはならぬが、持ちこたえるための命の糧にはなる。特にこの娘さんに対しては確実に験が見える。何といっても『戻りの風』じゃ」 聞いたことのない言葉を口にすると、サダは一度腰をかけた椅子から立ち上がり、入口へと向かいだす。 「『戻りの風』って一体何ですか?」 訳が分からない聖子は呼び止めようとしたが、老女は彼女の問いかけに応えることなく踵を返す。 「さて、あとは皆に任せて、儂はここらでお暇するとしよう。ではな」 「おばば様、少しお待ち下さい。お住まいまで送らせましょう。車を用意させますから」 「おおそうか、ありがとう和久殿。ではお言葉に甘えようか」 「あの…」 それまで後ろに控えていた名木が、二人に声をかける。 「私がおばば様をお送りして参ります。その後、一度家に戻って身支度を整えてからまた来ますので。それまで佳奈を看ていてくださいますか?」 「今夜も泊まり込みか?」 「はい」 名木は頷くと、手で赤くなった目を擦った。その顔にも濃い疲労の色が浮かんでいる。 「では、おばば様のことを頼む。君が戻ってくるまで、彼女と一緒についているから。 名木は和久と聖子にすみませんと頭を下げると、サダを伴って扉の向こうへと姿を消した。 「それで、話の途中だったけど、どうして佳奈のご家族に連絡をしないの?いくら本人たちが嫌がっても、こういう時にはそうするのが普通でしょう?あなたなら彼を説き伏せることくらい、訳ないんじゃないの?」 二人が見えなくなったことを確認した聖子は、再び和久を詰問し始める。 「それに、それ以外の理由って一体何?そんなに大事なことなの?」 彼は少し苛立たしげに息を吐き出すと、そう捲くし立てる聖子の前に立ち塞がった。 「これは、名木も知らないことなのだが…」 「彼が知らないこと?」 そこまで言って躊躇う和久に、聖子は続きを促した。 「佳奈さんがこうなる少し前、彼女はある場所で倒れているのを発見された」 「倒れていたって、どういうこと?」 「動けなくなり意識が朦朧として、何かぶつぶつと訳の分からないことを小声で呟いていたそうだ。見つかって、その場から運び出されたらすぐに普通に戻り、その後は何事もなかったように見えたらしいんだが」 「それとこの状態に何か関係があるとでも?」 「その可能性は捨てきれない」 信じられないと言いたげな顔で、聖子は彼を見つめた。 「それじゃ聞くけど、それは一体どこだったんですか?」 「瀧澤の屋敷の地下だ。彼女はそこの書類保管庫の中で倒れていた」 「書類保管庫?それが何か?」 「出入口は別で、尚且つ厚い壁で仕切られてはいるが、書類保管庫の隣には、御霊屋が…代々の瀧澤家の当主を祀った霊廟がある」 「そんなものがこんな場所に?」 霊廟などといったものが、この現代の日本にあるとは信じられない。ましてや、その隣の部屋で倒れたからといって、いちいち祟りだの呪いだのと言っていたら、オカルト趣味だと笑われてしまいそうだ。 そんなことあるわけないと一笑に付しようとしたが、なぜか聖子にはできなかった。この地に強く感じる何かの因縁は、彼女にも感じとれるからだ。 「もしそれが原因ならば、今、佳奈さんをここから離すわけにはいかない。おばば様の見立てでは、巣食った霊たちは、この場所から遠ざかれば遠ざかるほど己の維持のために彼女の体力を吸い取り、衰弱が一層ひどくなるということだ。 それに、仮に家族を呼び寄せたとして、彼らにこの状況をどう説明したらいい?どこも悪くはないのに、意識がなくて身体だけがどんどん衰弱していく、この現象を」 言葉もなくただ彼を見つめる聖子に、和久は吐き捨てるように呟いた。 「私にはそれさえも思いつかないのだ」 HOME |