彼は言いたいことだけ言うと、そのままくるりとこちらに背を向けて歩き出した。 この男、一体何様なのよ。 余程このまま啖呵を切って帰ろうかと思ったが、結局聖子は渋々ながら先を歩く和久について行った。 せっかく携帯を取り戻そうと、わざわざ休日にここまで来たのだ。無駄足にしたくはない。 しかし考えてみればおかしな事だらけだ。 遺失物なのに警察ではなく個人から連絡が入ってきたことからして、すでに妙だ。加えてどこから彼女の個人情報が漏れたのかが分からないことも不気味だった。 それに、これではまるで、携帯が彼女をおびき寄せるための餌だったようにも思える。 自分は何か良からぬことに巻き込まれたのではないか。嫌な予感がして、彼女の背中がぞわりと総毛立った。 このまま帰った方が良いかな…。 エレベーターに乗る直前、聖子は一瞬だがそう考えて躊躇して立ち止まった。だが次の瞬間、中から出てきた腕に力ずくで引き込まれたのだ。 「な、何するんですか?」 彼女は掴まれた腕を力一杯に振り払うと、その持ち主を睨み付けた。 「さっさと乗らないと後ろの人間に迷惑だろう」 そう言われて振り返ってみると、彼女の背後には数人の客が一緒に乗り込もうと待っていた。 「あ、す、すみません」 聖子は後ろの人たちに謝ると、再び和久に向き直り、小さな声で警告した。 「いいですか、変なことはしないでくださいね。でないとここで大声を上げますから」 「何て叫ぶんだ?『人攫い』か?」 「いいえ。周囲に人がいる時には『痴漢』が一番効果的でしょうね」 それを聞いた和久は、面白くもなさそうな乾いた声で笑う。 「心配しなくてもそんなことはしないさ。だが、肝に銘じておこう」 彼は最上階、ラウンジのある階でエレベーターを降りた。そして戸口を押さえて彼女を促すと、今は営業時間外となっているラウンジの中へと向かう。 「あの…ここ、今まだ営業していないのでは?」 「大丈夫だ。話はつけてある」 その証拠に、彼らが入っていくとホテルの制服を着た男性が近づいてきて、二人を奥へと案内する。 「お飲み物は、何をお持ちいたしましょうか」 「私はエスプレッソを」 ラウンジとはいえ、まだ夕方の営業時間前。彼が頼んだのも、さすがにアルコールではなかった。 「あ、私は…ジュースか、何でしたらお水でも結構です」 「ああ、それでは彼女にはグレープフルーツジュースを頼む。お嫌いではないですね?」 周囲の雰囲気に圧倒されていた聖子は、最後の問いが自分に投げかけられたものだと気付くまで少し時間が掛かった。 「え、ああ、いいです。大丈夫です」 夕方、まだ営業開始前のラウンジは、明かりが半分に落とされている。自分たちのいる個室だけが周囲とは違う明るさで照らされている分、余計に暗がりが重々しく感じられてしまうのだ。 確かに豪華な調度品で設えられた室内は、一見落ち着いた佇まいになってはいる。しかし空気が澱む暗がりがあまり得意ではない彼女には、ここは好みとは言いがたい場所だった。 給仕が飲み物を置いて下がると、待ち構えたように聖子が先に話を切り出す。 「ところで、私は一体何でこんなところに連れてこられる必要があったんですか?それよりも、携帯。早く返してください」 彼女はさっと手を差し出して催促した。 それを見た和久が、喉の奥でくくっと笑った。 「心配しなくても、ちゃんとお返ししますよ。ただ、その前に一つ、どうしてもあなたにお伺いしたいことがありましてね」 彼は聖子の苛つき構わず、悠然とデミタスカップを口に運んだ。 「でしたらさっさとお話を始めてください。私もそんなに暇なわけではないのですから。あなたは一体何を…」 和久は、彼に食って掛かろうと身構えた聖子の話の腰を折る。 「では単刀直入に訊こう。君はあの時、あの場所で、あの木と何を話していた?」 思わぬ問いかけに、答えに窮した聖子は、ぐっと息を呑んだ。 「何の…お話ですか?大体、木と話をするなんて…」 「あの時あの木が何を君に語ったのか、それを教えてもらいたい」 彼の質問はただ一点。それだけだった。 「だから、疲れたのであそこで休んでいただけです。木と話をするなんて、そんなこと…」 「では君はあそこで一人、何をしゃべっていた?木と同化するくらい側に身体を密着させて」 「ですからあの時は、木の側で休憩を取っていただけです。疲れたなって独り言を…」 「木に語りかけていたと?」 「そうです」 「周囲に人が近づいてくるのも気がつかないほどに集中して?」 「そ、それは…ええ、そうです。それ以外にはありません」 和久はどんどん畳み掛けていくが、聖子はあくまでもしらばっくれた態度を崩そうとはしない。 そんなやりとりが暫く続いた後、和久はうんざりした表情で額を擦った。その声は低く抑えてはいるが、明らかに口調には不快感を滲ませている。 「悪意はない。ただ、君が神木から何を聞いたのかを知りたいだけだ」 その後、彼は何度もそう繰り返したが、それでも聖子は「そんなことは知らない、していない」の一点張りで、どうしても彼の質問には素直に答えようとしない。 そのうちに先ほどの給仕が再度個室に現れて、遠慮がちに和久の耳元で何かを囁いた。 「分かった。そうしてくれ」 男性が頷き、立ち去った後、和久は諦めたような口ぶりで彼女にこう告げた。 「タイムアップだ。ここの営業時間が始まってしまう。できればこういう話は他人に聞かれたくはないからね」 彼はポケットから携帯を取り出すと、彼女に差し出した。 「御足労をお掛けした。約束どおり、これはお返ししよう」 聖子は彼の手から携帯電話を受け取ると、そそくさと席を立とうとする。 「いえ。こちらこそ拾っていただきありがとうございました。でも、もう今後お目にかかる機会はないでしょうし、そのつもりもありません。では、失礼いたします」 しかし彼女はくるりと踵を返し、数歩歩いたところで一度立ち止まり、和久を振り返った。 「ジュース、ご馳走様でした」 そう言って軽く会釈をすると、二度と彼の方を見ることなく、今度は本当にラウンジを出て行った。 「間違いなく彼女は何かを『観た』ようですね」 聖子が去った後、残された和久の側にどこに潜んでいたのか、いつの間にか関口が立っていた。 「ああ、恐らくな」 「しかし、なかなかツワモノのようですね。雑談にはそれなりに応えるのに、本題に入るとどうしても口を割らない。それも顔色一つ変えず、平然と知らぬ存ぜぬで通すとは」 「こうなれば、彼女がご神木から一体何を伝えられたのか。是が非でも聞き出す必要があるな。関口、彼女から目を離さないようにしてくれ」 「畏まりました」 一方、聖子はやっと自由になった解放感にほっとしていた。 あの男性…瀧澤が何の目的で彼女から話を聞きだそうとしているのかが定かではない。しかし、彼女がそれを語るということは、即ち自身の能力をも詳らかにすることに繋がってしまう。それを抜きにして、説明することは困難だし、敢えて他人に安っぽい興味を抱かせるようなリスクを負いたくはない。 絶対に話さない。そんなことができると認めることもしない。それが自分を護る唯一の術なのだから。 しかし、その思惑とは裏腹に、聖子を搦め取ろうとする運命の糸は、少しずつだが着実に彼女の日常を脅かしつつあった。同時にそれは、聖子自身をも逃れようのない宿命に巻き込もうとしているということに、この時の彼女はまだ気付いてはいなかった。 HOME |