BACK/ NEXT/ INDEX



蒼き焔の彼方に  10


『―― 当方の電話番号は03−××××…。…ホテルの3301号室です。直通、又は念のため、フロント経由でも構いませんので。一度ご連絡ください。では、お待ちしています』
そう言って伝言が切れるのを、聖子は電話機の側で立ち尽くしたまま聞いていた。

何で私の携帯があの男性の手元にあるのか。

不審に思った彼女は、警察に確認をしようとしたが途中で止めて受話器を置いた。時間はもうすぐ11時を回るところだ。地元ではない、それも一度行ったきりの観光地にある小さな駐在所に、この真夜中、わざわざそのためだけに電話をすることが、躊躇われたからだ。

もしかしたら、いたずら電話かもしれない。

できることならそう思いたかったが、迷子になった山中で男性とあったことを知るのは自分たち以外には誰もいない。その上電話で語られた携帯の特徴は、自分が無くしたものと合致する。

どうしようか。

相手が自分の滞在先を残しているということは、あくまでもこちらから連絡してくるのを待つという意味なのだろう。できるだけ関わり合いになりたくないが、携帯電話は取り戻したい。自分だけではなく、多くはないにしても友人たちの個人情報が入っているものを他人に触られるということは不愉快であり、また不安でもあった。

腕時計を見ると、11時半少し前。
常識的に考えれば電話をしてもよい時間とは言い難い。しかも相手はほとんど面識のない人物だ。
だが、聖子は受話器を上げた。このまま明日まで結論を持ち越したら、ますます迷いが深くなるように思えたからだ。彼女は寝室にある子機を取りに行く僅かな間にも決意が鈍らないように、その場ですぐに電話をかけ始めた。

数回のコールの後、呼び出し音が切り替わり、そして男性の声が聞こえた。
「はい」
「…あの」
「東聖子さんですね」
「…はい」
「ご連絡をお待ちしていました」



難色を示す聖子に対して、瀧澤は直接会って携帯を返したいの一点張りで、話は平行線をたどった。アルコールによる軽い思考の麻痺と、早く床に入りたい睡眠欲に屈した聖子がようやく彼の提案を呑み、電話を切った時にはそれからすでに1時間以上が経過していた。
約束は明日、日曜日の午後4時。
彼が滞在するホテルのロビーで落ち合うことになった。
人目が多いところを待合場所に選んだのは聖子の方だ。いつもならば人が多い場所は極力避けるが、今回のように特定の相手に対して注意を向ける必要がある時には周囲に多少の雑音があった方がよい。
そうでなければ、何かの拍子に彼に対するシールドが外れてしまうと、相手の思考だけが一気に自分に流れ込んできてしまうからだ。一瞬とは言え、他人の人格が持つ考えや感覚を共有することは、容易には受け入れられるものではない。
それに、もし彼が何だかの作為を持って彼女に近づいてきたのだとしたら、無防備に自分の力を曝け出すことは危険にもつながる。
だが…。

「ありえないわよ、そんなこと」
聖子はやっとベッドに潜り込むと、半分眠りに落ちながら呟いた。
今まで用心に用心を重ねて、注意深く隠してきたのだ。自分の持つ力が、災いにこそなれ、役に立つと思ったことは一度たりとももない。できるだけ他人との接触を避け、一人孤独に耐えてきたのも、すべては煩わしいこの能力を人に知られないためだった。

幼い頃に思い知らされた他人の猜疑心は、彼女の心に深い傷を負わせると同時に過剰なまでの警戒心を植えつけた。
それは、偏に聖子の能力が悪用される可能性があるからだ。
例えば、隠しておきたい奥の手や裏取引といった、商談にありがちな工作も彼女にかかればそれを見透かし、逆手に取ることができる。賭け事でも、確率を変えるようなことはできないが、人対人の、はったりをかける類のものは、読もうと思えば簡単に相手の手の内を読めてしまうのだ。
だから余計に、悪意を持って近づいてくる輩には警戒が必要だった。一度彼女の利用価値を知られてしまうと、その影響がどこまで波及するのか想像もつかなかったからだ。

多分問題ないわ。携帯を返してもらったら、それでおしまい。彼に会うことなんて、もう二度とないんだから。
そう、もう二度と…。

聖子は何となく覚えのある感覚にはっとする。
それはずっと以前、彼女が生まれる前のもっともっと昔に…。
この感覚は能力とはまったく別の次元のものだ。自分の血肉に組み込まれた記憶とでも呼べるような。

「馬鹿馬鹿しい。そんなことあるはずがないじゃない。私の力はエンバスだけ。それ以外は使うことができないんだから」

彼女は布団を被ると、考えるのを止めた。そして、欲求に任せて眠りにつく。どこかでそんな彼女を憂苦しながら見つめる、もう一人の自分の存在を感じながら。



こんな調子で土曜日は目覚めが悪く、ほとんど何もしないでうだうだと過ごした聖子だったが、日曜日は早くから目が覚めた。

せっかくの休日なのに、ついていないな。

朝からいつも以上に忙しなく溜まっていた家事を片付けながら、聖子は気が滅入ってくるのを感じた。
そしてその嫌な気分を引きずったまま、約束の時間に間に合うように重い足取りで家を出た。


約束の時間10分前。
聖子は指定された場所に一人で腰を下ろしていた。
彼女はいつもながらの目立たない装いをしていた。長い黒髪を背中で後ろに束ね、失礼にならない程度に薄く化粧はしていたが、総じて地味にまとめていて、とても年頃の若い女性のいでたちとは思えない様子だ。

そんな彼女が視界の隅に一人の男の姿を捉えた。
瀧澤と名乗った、先日山中で出会った男性だ。
この前の袴姿とは違い、今日は普通のスーツを着ているせいか、どことなく洗練された都会のサラリーマンようにも見えるが、彼が持つ独特の雰囲気は、服装を変えたくらいでは隠しようがないようだ。
その証拠に周囲を行く人が何となく彼の進路を避け、道を開けているように見える。

彼も聖子に気付いた様子で、まっすぐにこちらに向かって歩いてきた。
「お待たせしましたか」
「いえ、少し早めに着いたものですから」
そう言って初めて正面から見上げた瀧澤の顔は、決して目の覚めるようなハンサムではなかった。むしろ、きびしいとか、厳ついと形容されるような固い顔つきだ。だが、彼の周囲には表情一つで人を黙らせるような、支配者が持つ独特のオーラが漂っている。
その上、すぐ目の前に立つ彼はかなり身長があり、威圧感があった。160センチそこそこの聖子と比べても、多分軽く頭半分くらいは彼の方が大きいだろう。

「携帯を拾っていただいたそうで、ありがとうございました。警察の方から、見つからない確率の方が高いとうかがっていたので、驚きましたが。で、私の携帯は」
「これで間違いありませんか?」
彼が内ポケットから取り出したのは、見覚えのある自分の携帯電話だった。
「ええ、色や形は同じです。それにそのストラップが…」
ちらりと見えたストラップは、以前佳奈がくれたクリスタルの小花だった。それがあれば、ほぼ自分のものに間違いない。

「拾った時にはまだ電源が入っていた。今はもう恐らく充電切れをしていると思うが」
「ありがとうございます」
返してもらおうと手を出した聖子に、瀧澤は意外な提案をした。
「実は折り入って話がある。簡単に立ち話で済むことではないので、上階のテラスに場所を用意させた。これからそちらに移動して、少し付き合ってもらえませんか」
話ならここでと言いそうになった彼女に、瀧澤が先手を打つ。
「でも、そんなことは…」
何としてもここで話を終わらせたい彼女は、頑なに首を振ろうとはしない。
そんな聖子の態度を見た瀧澤は、卑怯とは思いつつも、手にしていた携帯を再び自分のポケットにしまってしまう。

「携帯はそちらでお返する。さあ、どうしますか」




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME