「寒い…」 その日、3月も半ば過ぎになろうかというのに都心は突然の雪に見舞われた。 電車を降りて改札を抜けると最初に目に飛び込んできたのはどんよりとした雪雲の空。 強い風が容赦なく吹きつけるその冷たさに思わず身震いしてコートの襟を立てた。 ロータリーを回りこみ、駅に隣接するタクシー乗り場に急ぎながら腕時計を見ると、天気を見越してかなり余裕を持って出てきたはずなのにいつの間にか約束の時間が迫っている。 間に合わないかな…? 真音はため息交じりに呟き、降り止まない雪空を見上げた。 「参ったなぁ、この時期に雪に降られるなんて」 前に並ぶ男性が同じように空を見上げて呟いていたのを見て、彼女は思わずくすっと笑ったが、次の瞬間顔が強張った。 間の悪いことに、こちらを振り返った男性としっかり目が合ってしまったのだ。 「ごめんなさい、つい聞こえちゃって」 「いえ…」 彼女が上目使いに謝ると、声の主は苦笑いを浮かべていた。 そうよね、みんな「こんな筈では」って思っているわよね…。 きっと今日は街のあちらこちらでこんな呟きが聞かれていることだろう。 数日前から続いていた春の陽気から一変、前触れのない突然の積雪に、都会の街中は軽いパニック状態になっている。 いつもなら客待ちで列を作るタクシーも、今日は反対にお客の方が乗り場に長い列を作って順番待ちをしている有様だ。 寒空の下、吹きさらしのタクシー乗り場は風が舞い込み、立っているだけで足先が冷たく凍えてくる。 こんな日に外出の予定が入っていて、しかもそれが外せない用事となると、もう身の不運を嘆くしかないだろう。 彼女、西山真音 (にしやま まお) は知人から英会話スクールの臨時講師を頼まれ、その打ち合わせのためにここに来ていた。 紹介されたカルチャースクールは、主に主婦が通うサロンのようなもので、週に1回、お茶を飲みながら日常生活に即した会話をレッスンするという類のものらしいのだが、講師をしているイギリス人女性が突然帰国してしまったため、急遽彼女に依頼が入った。 元々、真音の専門は翻訳であり人前に出て講師をすることなどは気が進まなかったが、仕事の付き合いもある人からの切望を断ることができなかったのだ。 今日は関係者への挨拶を兼ねて簡単な打ち合わせをする予定だった。 初めての経験なので、かなり緊張して出かけてきたところにこの季節外れの天気、早速に出鼻を挫かれたような気がする。 これから起きる前途多難の前触れのようで、気乗りのしない仕事の打診をきっぱりと拒否できなかったことが今更ながらに悔やまれた。 しばらくして時計を見ると約束の時刻まであと30分しかない。 まだ行列の先端まではかなり遠く、このままでは遅刻は避けられそうになかった。 最初からこんなことでは相手にどんな悪印象を与えてしまうかと思うと暗澹たる気持ちになるが、今の状況ではどうにもならない。 真音は仕方なく携帯で、遅れそうな旨の連絡を入れると今日何度目か分からないため息を小さくついた。 道路の雪はシャーベット状に融けかかり、チェーンを巻いた車はシャリシャリと音を立てながらいつもより注意深く走っているように見える。 相変わらずタクシー乗り場は長蛇の列だったが、それでも順番はゆっくりと少しずつ前に進んでいった。 しばらくして前にいた男性の順番になった。 ゆっくりと路肩に滑り込んできたタクシーが停まった、と不意に彼が手招きをして彼女を呼んだのだ。 何かしら…? 真音が警戒しながら傍に近づくと、男性はドアの開いた後部座席を指して言った。 「もしよかったらご一緒しませんか?」 「でも…方向が違うと遠回りになってしまいますから。あなたもずいぶんお時間を気にしてらしたでしょう?」 同じように時間を気にして、何度となく時計を見ながらため息を漏らしていた彼の様子を見ていたのだ。その申し出を素直に受け入れることはできなかった。 きっとこの男性にも何か時間を気にするような予定が入っているのに違いない。いくら自分が遅刻しそうだと焦っているからといっても、見ず知らずの他人に迷惑をかけてまで先を急ぐ必要はない。 それでも同乗を勧める彼は引かなかった。 なかなか乗り込んでこない乗客に、タクシーの運転手はどうするんだとでも言いたげな目でこっちを見ているし、寒さにイライラしている後ろの待ち客たちの視線も背中に痛いほど感じる。 しばらく乗る乗らないで押し問答をしていたが、根負けした真音は、渋々ではあるが結局申し出を受けることにした。 彼が開いたタクシーのドアを押えるようにして彼女を先に奥に乗せ、自分が後から乗り込んでくる。 日本では珍しい、レディーファーストをさりげなく決めるこの男性。海外経験が長いのか、生来のフェミニストなのか、そのあたりは定かではないが、久しぶりに『女性』として扱われたことは彼女に小さな戸惑いを与えた。 独りで生活をするようになってから、仕事以外では男性との接触を意識的に避けていた彼女は、自分が異性から女性として見られていることすら忘れてしまっていた。 いや、忘れていたのではない、忘れたふりをしようとしていたのだ。 もう二度と同じ痛みを味わわないように…。 そう意識した途端に、妙に隣に座る男性との近すぎる距離が気になり始める。 乗ることの是非にすっかり気を取られてしまい、タクシーの後部座席という密閉された空間に知らない者同士が閉じ込められるという緊張感をどこかに置き去りにしてしまっていたようだ。 やはり同乗するべきではなかった。 彼女は今になって彼の強引さに屈した自分を悔やんだ。 運転手に促され、二人がお互いの行き先を告げると、ここからだと少し方向がずれるがどうやら彼女の行き先の方が僅かに近いらしい。 それが分かると彼は真音に異義を挟ませる機会も与えず先に彼女の目的地に向かうように運転手に指示を出した。 その、人に指図することに手馴れた強引なやり方と態度に少しばかり反発を感じたが、敢えて反論はしなかった。 この狭い空間で見知らぬ人と言い争っても仕方がないと思ったからだ。 真音は緊張して俯き、身体を硬くしていた。 髪やコートに付いた雪が、車の暖房で融けてくる。 同時に外の冷気から急に温かい車内の空気に包まれて、自分の頬が赤らんでいるのが分かった。しかしふと横を見て自分に向けられたままの男性の強い視線に気付いた途端、頬だけでなく顔中が赤くなってしまったような気がして、慌てて彼から目を逸らし、何気ないふりで垂れてくる雫を軽くハンカチで押さえた。 「本当にすみません、遠回りさせてしまったみたいで。今日初めて行く場所だったんです」 火照りを隠そうと頬に当てた自分の手が、冷たくて心地よい。 「場所も良く判らないし、時間も距離も読めなくて」 「僕もいつもなら自分の車を使うんだけど、今日はこの天気でしょう?渋滞を予想して地下鉄を使ったら…こうなったというワケ」 そう言って苦笑する男性の髪の先にも融けた雪が雫を作っている。 今にも垂れて落ちそうになった水滴を見て、思わず自分のハンカチで彼の額を押えてしまった。 真音は自分のした行為に恥ずかしくなり、ハンカチを膝の上で強く握り締めて再び俯いた。 咄嗟のこととはいえ、こんな馴れ馴れしいことを見ず知らずの他人にした自分が信じられなかった。 「ご、ごめんなさい。つい…気を悪くなさらないでくださいね」 「いえ…、ありがとう…」 黙り込んだ彼女に気を使うかのように彼は軽い口調で話しかけた。 「でも、まぁ、こういうアクシデントも悪くないかな」 何を言い出すのかと不思議そうな顔をした彼女を、男性は悪戯っぽい顔で笑って見つめている。 「こんな天気だからこうしてあなたと出会えたわけだし。こればっかりは、季節はずれの雪に感謝しなくては…ね」 社交辞令と分っていても、こんな台詞を面と向かって言われるとは思ってもいなかった真音はますます居心地が悪そうに小さくなった。 若い男性にこういうふうに言われれば普通の女性なら悪い気はしないものだろうが、それを喜ぶような素振りはまったく見せず、むしろ萎縮してしまったようだ。 そんな彼女の反応を見て、彼は急に話題の矛先を変えた。 それが功を奏したのか、最初こそ何を話してよいか分らず戸惑っていた彼女も、他愛もない話をしているうちに緊張が解れてきた様子が見えた。そして気がつけば、二人は妙に心地よい会話の応酬を楽しんでいた。 彼の持っている話題選びのセンスは会話を盛り上げて、弾ませる力がある。驚くほど多彩な知識を持っているようなのにそれをひけらかす素振もなくちゃんと彼女の意見を聞く耳を持っているし、的確な答えを返してくれる。 普段、一方的に聞き役が多い真音にしてみれば自分には望めないうらやましい才能だと思った。その如才なさを見るにつけ感心してしまう。 きっと周囲の人は誰でも、知らず知らずのうちに彼のペースで自然と会話に乗せられてしまうのだ。 多分、この人はこんな場面にも慣れているのだろう。 大きな渋滞にかからなかったタクシーは、20分ほどで目的地に着いた。 ハザードを出して車を路肩に寄せる間にちらりとメーターを盗み見た真音は、こっそりとバッグから財布を取り出して料金を賄えるだけのお札を抜き出した。 ドアが開き、左側に座っていた彼が位置を交わすために先にタクシーから降りた。 「危ない!」 足元が悪い車道と歩道の間で足を滑らせそうになった真音の身体を一瞬早く彼の腕が抱きとめる。 「す、すみません、私ったら…」 急に近くなった距離を急いで引き離すかのように、素早く歩道に上り彼の手から離れる。 二人の間に舞い降りてくる雪は小さな粒になり、霧雨に変わろうとしていた。 「ありがとうございました、お陰様であまり遅刻しないですみそう。助かりました、本当に」 「いえ、そんな大袈裟な」 「これ、ここまでのタクシー代ですから」 そう言って真音がお金を渡そうとすると、彼はきっぱりとそれを遮った。 「ついでの寄り道ですから。今日は僕が」 「でも…」 差し出した手をお札ごと、彼の両手に包みこまれる。不思議とその所作に嫌悪を感じることはなかった。 彼の長くしなやかな指が彼女の手に添えられてそっと押し返されてしまうと、もうこれ以上無理に受け取って欲しいとは言えなくなる。 申し訳ないと思いながら「ではお言葉に甘えさせていただきます」と言うと、 彼は「とんでもない」と微かに首を振った。 「短い時間でしたが楽しかった。またお会いできるといいですね」 タクシーを降りた真音が軽く会釈をすると、再び車中の人となった彼は少し微笑んでいた。 そして彼を乗せたタクシーは、次の目的地へと走り去って行く。 その姿が道の向こうに見えなくなると、真音は目指す場所に向けてゆっくりと歩き始めた。 雪は雨に変わり、垂れ込めた雲の切れ間から薄く日差しが差し込んでいる。 春の雪がもたらした偶然の出会い。 それは彼女にとってごく日常の、ありふれた一コマで終わるはずのものだった。 しかし、これがその後に起こる嵐の前触れだとは、まだこの時の彼女には知る由もなかった。 HOME |