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雪のミラージュ  2


一目見た瞬間から目が離せなくなった。
兎にも角にも彼女から視線を外すことができない。
一目惚れ、運命の出会い、いろいろ表現する言葉はあるのだろうけれど、そのどれを取って正解と呼べるのか分からない。
その日、そういうものが世の中に本当に存在するのだと彼は初めて知った。

その女性は風に舞い踊る季節外れの雪の中に佇んでいた。
吹き付ける風に飛ばされてしまいそうなほど小柄な体を抱き寄せ、風に乗って流れるしなやかな黒髪を手に取り柔らかさを確かめてみたい。
見ず知らずの女性に対し、それまでの彼には考えられないような、あるまじき衝動に駆られた。
遠くを見るような眼差しの大きな潤んだ目と、どこか儚げな表情を作る口元。鼻筋の通った面立ちは控えめだが、人目を引くに十分なほど整っている。
自分と同い年くらいだろうか。成熟した大人の女性の中に少女の面影を宿す、そんな表現がぴったりくるような印象的な風情の女性だった。


あれから1ヶ月が過ぎた。
最近、変わり映えのない日常を過ごしていても、不意に彼女のことを思い出す時がある。
流れるような黒髪、優しく囁くような声、大きく印象的な瞳、小柄で華奢な身体。
偶然抱きとめた時の感触が記憶から離れず、街でよく似た姿の女性を見かけると思わず振り返ってしまう。
なぜこんなにも彼女に固執してしまったのかは分からない。
だが、彼女を追い求める気持ちは日増しに強くなっていくようだ。

「はぁ、まったく。僕としたことが…」
並んでいる文字が頭に入らない。
読みかけの会議資料を無造作にデスクの上に投げて窓際に歩み寄ると、春の日差しがガラス越しに乱反射してくる。
4月の空気はまるでひと月前の雪の日などなかったかのような、穏やかな暖かさだった。

もしかしたらあれは幻だったのかもしれない。
そんなばかげた考えすら起こしてその面影を振り払おうとするが、脳裏に焼きついた存在は彼の無駄な企みをことごとく否定する。
行きずりの女性を求めてここまで心が震えるなどとは、今までの彼には考えられなかったことだ。
名前さえ知らない女 (ひと)、今となっては探す手立てさえないというのに。

所詮、春の雪の悪戯と思いながらも日々思いが募っていく。
そんな気持ちを持て余す自分に驚きを覚えるのだ。


窓の外、はるか眼下に見える桜並木は薄いピンクの花で覆われていた。
「もう桜のシーズンだな。今年は日本でゆっくりと花見ができるかと思っていたのに、そんな暇もくれないらしいな」
その日、朝倉嶺河 (あさくら りょうが) は都心にある朝倉の本社ビルの最上階にいた。
この階は役員室専用のフロアーになっている。
ここまで専用エレベーターを使うように造られているため一般の社員の姿はほとんどなく、他の階の喧騒とは全く無縁の空間が広がっていた。
廊下に連なる美しく細工された両開きの重々しい木製の扉を開けると、見るからに手の込んだ調度品と靴が埋もれそうなほど毛足の長い絨毯に迎えられる。
オフィスビルの中にあって、このフロアーだけは別世界の趣だった。
それは朝倉という家の財力を誇示するようで、ここを訪れる者を威圧するには十分過ぎるほど重厚さをかもし出している。
そして今、嶺河はその最奥にある副社長室にいた。
兄である大地のオフィスだ。

「まぁ、このプロジェクトが片付いたら、ゆっくり休んでくれ。それにあとひと月もすればゴールデンウイークだ」
「あと1ヶ月もこの状況で働きづめかよ…まったく人使いが荒いな」
「そう言うな。明日、合意書にサインすれば一息つけるだろう」
「やっと…ここまで来たって感じだな」
嶺河はシガーケースからタバコを取り出し、火もつけずに咥えたまま片方の唇だけ上げてニヤリと笑った。
部屋の中央の、大きなデスクに片肘をついてこちらを見ていた男も目を僅かに細めて片頬だけで笑みを返す。
「兄貴も一本どう?」
「いや、いい…止めておく」
「へぇ、めずらしいな、ヘビースモーカーのくせに」
「これでも最近少しずつ減らしてるからな」
「うそ!?」
「本当だ」
「またどうした心境の変化?」
「まぁ、な…」
「煙を嫌がる女でもできたか?」
「…ノーコメント」

肯定も否定もしないで、また少し目を細めただけ。
何を思っているのか分からないが、その表情がいつになく優しげなのに驚く。
こんな兄の顔を見たのは久しぶりのような気がする。

「まぁ、いいさ。仕事中毒の兄貴にそこまでさせる女が現れたのは喜ばしい限りだからな」

数年前、不慮の事故で妻と子を亡くして以来、仕事しか目に入らないとでも言うような生活をしてきた兄の微妙な変化。
これはなかなか良い傾向のようだ。
もう少し探りを入れたいところだが、ポーカーフェイスなのは互いに分かっている。
これ以上の追求は無駄と悟り話題を変える。

「そういえば、明日の準備はできているのか?」
その問いかけで一瞬にして大地の顔つきが変わり、表情が引き締まる。
どんな状況でも仕事に関しては全く妥協を許さない。だからこそ兄はこの一大帝国を自分の管理化に抑えてその頂点に君臨する立場を貫いていけるのだ。
今や実質的にこの会社を動かしているのは、父親である社長ではなく副社長の大地だ。
嶺河にしてみれば、兄弟として協力は惜しまないが、彼の立場に取って代わるような気持ちはまったくない。
あの押しつぶされそうな責任感や圧迫感を独りで背負うのは御免被る。

「もちろん。手配は抜かりなくやっているはずだ」
「そうか。じゃぁ、明日を待つばかりだな」
そう言って、吸いかけのタバコを灰皿でもみ消しドアに向かって踵を返す。

「明日は会場に直行する。兄貴は他の役員たちと入ってくれ」
「ああ、会場で会おう」
ドアのところで片手を挙げてそれに答えると、自分のオフィスを目指して足早に廊下を進む。
入口で秘書に声をかけてコーヒーを頼み、そのまま自室のデスクへと向かった。


「――ったく、毎日毎日よくもこんなに案件があるもんだな」

自分のオフィスに戻り今日のスケジュールを確認すると、早速デスクに山積みにされている書類に目を通し、決裁をしていく。
いつ終わるとも知れない大量の書類にため息をつきながらも、明日の調印と記者発表のことを考えると自然と満足げな笑みがこぼれた。
この一年、彼を筆頭としたプロジェクトチームの面々は、朝倉物産―牽いては朝倉グループの欧州進出のために膨大な時間と資金、そして労力を費やした。
文字通り、寝食を忘れて東奔西走した結実ともいうべきEU企業との業務提携が明日発表されることになっている。

「やっとここまでたどり着いたな」

そういえば、この数ヶ月というもの、彼にはまともな休みはほとんど与えられなかった。
何とか今日まで気力で乗り切ってきたが、体力も限界に近い。

「あぁ…さすがに疲れた〜」
ふぅと大きく息をつき、肩の力を抜いて椅子の背に深くもたれる。

ドアの向こうでノックの音がしたかと思うと、秘書の高野がコーヒーを乗せたトレーを持って入ってきた。
書類が広がったデスクにちらりと視線を向け、空いたスペースがないのを確認すると横の応接のテーブルにカップを置く。

「常務、お疲れ様です。こちらで少しお休みになってください」
「ああ、高野君ありがとう」
デスクから離れてソファに座ると、香りの良いコーヒーを口にする。
「いよいよ明日ですね、私も緊張してしまいます」
ソファの横に立った彼が少し興奮気味に話しかけてくる。

「さすがに疲れたよ、『精魂尽き果てる』ってこういう時に使う言葉だな」
実感のこもった言葉に、高野が笑いながら同調してくる。
「今の常務に必要なのは、ゆっくりできるお休みと、優しい彼女の癒しですか?」
「ははは、彼女か…この一年まったく女には縁がなかったな。そんな暇もなかったし。君も知ってのとおりだよ。何せ日本に帰ってきた日が両手くらいしかなかったんだから、愛想も尽かされるってもんだろう?」
「そうですね、本当にお忙しかったですからね」

それでも電話一本で今夜の予約を取れる女性がわんさかと待機しているんですから…と呟いた高野の視線を無視してコーヒーを啜る。

「誰か癒してくれる人、本気で探そうかな」
ため息混じりにぼそりと呟くと、秘書は珍しいものを見るかのような目でじっとこっちを見た。
「そんなことをおっしゃっているのが聞こえたら、秘書室の若い女の子たちが黙っていませんよ。人気がおありなんですから」
高野はそう言うと悪戯っぽく笑い、トレーを持って出て行った。

癒されたい…か。
不意にまた、雪の日の女性のことが思い出される。
あの華奢な体に優しく抱き包まれて、温かな体温を感じながら眠りに落ちることができるなら、もうそれだけで天国にいる気分だな、きっと。
そんな妄想に心地よく浸っている自分に気づき、思わず苦笑する。

やはり今の自分に必要なのは、心と身体に浸み込む様な癒しのようだ、と。




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