なに不自由なく育った朝倉物産創業者の一人息子は、長じて京都の大学に通い勉学に勤しんだ。 卒業後もそのまま京都に残り、そこで支社を立ち上げて父親の事業を手伝っていた時に一人の女性と恋仲になった。 その方は有名な舞妓さんだったそうだ。 折りしも時代は昭和の恐慌が席巻しており、彼女のいた置屋もその例外ではなかった。不景気のあおりを受けた置屋の嵩んだ借金のために、水揚げを決心した彼女には、すでに身請けする旦那も決まっていた。 それを、財力にものを言わせた祖父が横から掻っ攫ったのだという。 「まだお若い方でしょうに、そんなにお力があったのかしら?」 真音にしてみれば、20代の若者が、一人の女性を自由にできるほどの力を持っていたとは信じられなかった。そもそも、身請けというものにどれだけの支度金が必要なのか、そこからして皆目見当もつかないのだが。 「坊ちゃんたちのお祖父様は、父親以上に商才がおありだったようですよ。一時は東京の本社よりも、関西のお店の方が羽振りが良い時期もあったそうですから」 周りの者たちは、祖父がその舞妓を水揚げし、囲うのだと思ったそうだ。 だが、彼はそれを潔しとせず、彼女を正式な伴侶に迎えると宣言した。 今よりもっと身分の分けが厳しい時代のこと、ましてや相手が花街の女性ということで、当然のことながら周囲からは大反対を受けた。 だが、当の本人の両親、曾祖父母は大して反対もしなかったという。 恐らく自分たちの時の状況を鑑みれば、息子の結婚にとやかく言うこともなかったのだろう。 こうして祖父は、まだ襟替えも済まない年頃の女性を落籍させ、そのまま妻に迎えることになる。 そして生まれたのが嶺河の父だ。 この二人には、結婚後もいろいろと醜聞が着いてまわり、後ろ指を差されたこともあったそうだが、後に曾祖父たちは息子と嫁を東京に呼び戻し、自分たちの庇護の下に置いてその場を丸く治めた。 と、ここまでは戦前戦中のお話で、ありがちなことかもしれないが、この後もまだまだ朝倉家の男たちの暴走は続く。 嶺河たちの父親、現在の朝倉物産社長である朝倉巌は、戦後の高度経済成長期の自由を謳歌する、ごく普通の若者だった。 ただ、さすがに三十を過ぎると、いろいろなところから降って沸いてくるほど縁談が持ち込まれていたが、独り身の気楽さが気に入っていたという彼はなかなか首を縦に振らなかったという。 しかし、彼もまた朝倉の血統を持つ男性であることが証明される事件が起きた。 それは大阪万博が開催された1970年、その会場で外国館のコンパニオンをしていた、一人のうら若き女性に一目惚れ、そのまま口説き落としてしまったのだ。 何とか会期中くらいは待つようにという周囲の説得をもろともせず、彼は逡巡する彼女をも押し切り結婚にこぎつけた。 その理由は、今で言う「できちゃった婚」 どうやら、なかなか煮え切らない恋人を強引に押し倒してしまったらしい。 結局、彼女は周囲の反対を説き伏せ、何とかがんばって最後まで務めたが、会期が終わった頃にはすでに妊娠4ヶ月、ワンピースの制服のファスナーが背中の半分までしか上らなかったという、笑うに笑えない逸話が残っている。 そしてその二人の間に恵まれた子どもが、大地と嶺河である。 大地の最初の結婚はごくごく普通の恋愛結婚だったらしいが、今の奥様と落ち着くまでにはそれなりに紆余曲折があったと聞く。 嶺河は我が身のことなので、言うに及ばず、だ。 そして、最後に志保さんはこう付け加えた。 「嶺河さまが一番初代様のご気性を濃く写していると言われていますよ、お顔は美人の誉れ高かったお祖母様譲りですけれど。 お小さいときから、とにかく何でも自分の欲しいものは手に入れないと気がすまない。誰に何と言われようとも絶対に諦めませんからねぇ」 彼女はそう言うと、意味ありげに真音の顔をちらりと見て、またにんまりと笑った。 その意味を悟った真音は、赤くなってその視線をかわすように俯き、左手の薬指に指に光るリングを玩んだ。そういえば、これを填められるまで、嶺河がいかに強引かつ執拗に彼女に迫ったかを思い出す。 どうやら代々朝倉の男たちは、意中の女性はどんな手段を用いてでも我が物にしてきたらしい。 はて、しかしながら、それと 『朝倉の家訓』 とはいったいどういう関係があるのだろう。 そう気付き、狐につままれたような顔をしている真音を見た志保さんが朗らかに笑う。 そして最後に彼女はこう付け加えた。 「朝倉家の男性は、とにかく情熱的で、独占欲が強い御仁ばかり。その方々が代々受け継いできたのが、初代が妻をお迎えになるときに用いたお言葉ですよ」 それは 『婚姻は当人の情愛のみを旨として行うべし』 という教え。 嶺河の曾祖父は、この言葉で周囲に啖呵を切ったのだという。 「ですから朝倉家の皆様は、ご自分の意志でお決めになった相手とのみ、ご結婚なさっています。御一方も例外はありません」 すなわちこれが不文律の 『朝倉の(嫁取りの)家訓』 となっているのだという。 「それはもう、大変なことですよ。お仕事がらみやご親戚からのお話、そういったものに一切とらわれず、ご自分のお心だけを縁になさるのですから。 それでもこの朝倉に嫁がれた皆様は、お幸せだと思います」 「そうね。それほど思ってもらえるのならば、女性として本望かもしれないわ」 「そうですとも」 わが意を得たり、とばかりに志保さんが微笑む。 「さあ、今夜には嶺河様もお戻りですからね。何かお好きなものを作ります。私も腕によりをかけますよ」 「今夜も冷えそうだから、一緒に何か温かいものでも用意しましょうか」 キッチンから夕餉の仕度をする湯気が漂ってくる。 それは100年、いやそれ以上も前から変わらず、脈々と受け継がれる、朝倉家の団欒の準備だ。 その香りに込められた、ありきたりともいえるような安らぎこそが、熾烈なビジネスの世界に身を置く朝倉の男たちが求めて止まない愛情の象徴であることに、今も昔も変わりはない。 |