「あ、あなたは…?」 聖子は声の震えを何とか抑えつつ、目の前に立つ人を見つめた。 その男性の服装は明らかに登山客ではない。かと言って普通の観光客のような様子でもなかった。 白い袴姿に草履履きのその出で立ちは、まるで神社の宮司か何かのようだ。 「ここは私有地だ。立ち入りはできないはずなのだが」 彼は聖子の質問に答えることなくそう言うと、腕にはめた時計を見た。 「もうそろそろ日没になる。暗くなると足元が悪くなるから早く下山した方がいいだろう」 「でもあの、私、道に迷ってしまって」 「恐らく隣の沢から入り込んでしまったのだろう。ならば仕方がない、案内するからこちらから下りていただきたい」 彼は一方的にそう告げると、踵を返してもと来た道の方へと歩き出した。 聖子は迷った。 誰もいない山中に迷い込んだと思っていたのに、突然この男性が目の前に現れた。そして何も教えられないまま、自分について来いという素振りで彼女を雑木林の中に連れて行こうとしている。 果たして彼を信用しても良いものなのか。 男性の特異な衣装と身に纏っている雰囲気は、彼女に警戒感を抱かせるに充分値する。だが、彼の言うとおり、日暮れが近づいているのも事実で、そうなると本当に身動きがとれなくなる危険性が高い。 彼女が躊躇している間にも、男性はどんどん空き地を横切り鬱蒼とした木々の方へと歩を進める。そして林の入口まで辿り着くと、やっと振り返って彼女を見た。 「時間がない。どうしてもと言うのなら、留まるのは自由だが、この辺りには夜行性の動物や、野生の熊もいる。絶対に安全だとは言い切れないぞ」 彼はそれだけ言い置いて、姿を消した。 「確かに。熊はちょっと願い下げだわ」 それを聞いた聖子はそう呟くと、慌てて林の中に消えた彼の後を追ったのだった。 来た時の足元の悪さとは打って変わり、男性に連れられて下りた山道はきれいに整備されていた。躓くような凹凸もなく、薪で土留めされた土の階段がずっと下まで続いている。これならば彼のように草履でもあそこまで上って来ることは可能だろう。 「あの、ここには登山者はいないのですか?」 先を進む男性の背中を追いながら聖子が訊ねた。これだけ整備されたコースなのに、周囲はどこも踏み荒らされていない。むしろ、時々しか使われていない様子で、何もかもが整然と整えられていた。 「ええ。ここは私有地ですから、一般の人は入れません。たまに麓に近い方で沢から迷い込んでくる観光客もいますが、大概は上まで上ることなく保護される」 彼は単調な声でそう答えたが、歩を緩めることはおろか、振り返ることさえしない。 「でも、さっきの場所には神社か何かがあったように見えました。あそこにお参りに来られる方もいらっしゃるのでは…?」 この山には何かがある。はっきりとは掴めないが、ともすると信仰の対象にも為り得るほどの強い力がこの山全体に働いている。 そう感じた彼女は、早くこの話を打ち切りたい素振りを見せる男性に更に水を向けた。 「いえ、あの場所は」 急に男性が、彼女の話を途中で遮った。 「あれはこの山の所有者である瀧澤家ゆかりの社。村の鎮守は別にあります。ですから限られた者だけが決められた日にここに入り、あの場所と社を祀っている。それ以外には誰も来ません」 「でも、それでは村の皆さんは…」 それでもなお食い下がる聖子に、男性は少し苛立ちの滲む息を吐くと、ようやく立ち止まり彼女の方を振り返った。 「都会の方はご存じないかもしれませんが、このあたりには山岳信仰が盛んで、神山も多数存在します。彼らもそれを理解した上で、敢えてここには近づかない。つまりこの山はそういう場所なのですよ」 彼女もそういった場所があることは知っている。 最近ではパワー・スポットとかミステリー・スポットとかいうものを求め、禁忌を侵して勝手に山中に入っていく輩もいるが、往々にして近隣の住人が決して近寄ろうとはしない場所が現代にも確かに存在している。 そこは彼らにとっては祟りに繋がる忌むべき場所であると同時に、崇め立て奉る聖域であることも多かった。 山歩きが趣味である聖子は幾度もそういう場所の話を耳にしたことがあるし、実際に入山禁止の山を見たこともある。それらを無視して強行するハイカーもいるが、自分にはとてもそんなことはできなかった。 それは彼女の持つ力と密接な関係があるのだが、それを知るものはいない。 「そうですか。それは、大変失礼をいたしました。知らなかったとは言え、そんな大事な場所に迷い込んでしまったなんて」 再び歩き出した男性の背中に一応詫びの言葉を呟く。どうせ聞こえてはいないのだろうと思ったが、意外にも彼は振り向いて顔だけこちらに向けた。 「天気も悪かったし、迷ってしまったのも止むを得ないでしょう。ただ、下山してからも、あの場で見たもののことは一切他言しないで頂きたい。それだけは、よろしくお願いします」 麓に下りると、彼に礼と暇を告げてホテルへと急いだ。 驚いたことに、下りてきた山はホテルのすぐ側にある山だった。登山口は大きな邸宅の敷地の端にあり、そこから庭を抜けて外に出るよう男性が道案内をしてくれた。 もしかしたら、山を祀るために建てられた神宮か何かの敷地だったのかもしれない。だとすれば、案内してくれた男性が禰宜のような服装をしていたのも合点がいく。 宿に戻ると、ホテルは騒ぎになりかけていた。 最後尾を歩いていた森たちが下山してからすでに2時間以上が経過しているのに、聖子がまだ下りてきていないことが発覚したためだ。 「ほんの一瞬だったんだ。突然横殴りに強く降ってきて、目が開けられないくらい強烈な雨に視界が効かなくなった。そして、気がついた時には前にいた東君の姿が見えなくなっていたんだ。でも前には他のやつらもいるから、きっと僕たちがもたついてる間にそっちに合流したんだとばかり思っていた」 しかし、同僚を背負ってやっとの思いで下山してみたら、前のグループの中にも彼女の姿は見えなかった。部屋にいたのは彼女の帰りを待つ佳奈一人で、他の場所にも戻っている形跡はない。 「はぐれるような脇道はなかったように思うし、転落するような岩場や断崖もなかった。だからもしかしたら、途中にあった避難小屋の方にルートを逸れたのかと…」 だが、後からその小屋を出てきたという別のハイカーにも聖子の姿は目撃されていない。 そこで初めて彼女が一人行方不明になっていることが明らかになったというわけだ。 佳奈はパニックで右往左往するし、山に戻ろうにも日没が近く、無謀だとガイドに止められた。 仕方なくホテルのフロントに連絡して警察に来てもらい、これからどうするかを話し合っていたところだったのだ。 「では、雨で方向感覚を失って山道に迷い、沢の方に下りてしまったんですね」 駆け付けてくれた駐在所の警官は、そう言いながら書き終えた調書をファイルごとカバンにしまった。 「でも何事もなくて良かったです。もしこのまま下りてこられなかったら、夜になって山狩りをしなければいけないところでしたよ。そうなると地元の消防団や自治会も総動員ですからね。大変な騒ぎになるところだった」 「どうもすみません、お騒がせしてしまいまして」 恐縮して何度も頭を下げる聖子と森と、その様子を見守る佳奈。 「いえいえ、本当に無事で良かった。それが一番大事ですからね。失くした携帯電話は、見つかったという届出があればすぐにお知らせするようにしますが、場所が場所ですから、あまり期待しないでください。では、これで失礼します」 警察官が帰った後、聖子は予定されていた宴会を欠席して先に休ませてもらうことにした。佳奈も付き合うと言ってくれたが、せっかくのご馳走だからと説得して部屋を出した。 今日は何だか色々あり過ぎて、こんな状態で眠れるわけがないわ。 聖子は男性との約束どおり、岩室のことは一言も話さなかった。多少つじつまが合わないこともあったが、とりあえず彼女が何事もなく下山し、無事だったこともあり、警察官も聴取に付き添ってくれた森もあまり深くは追求してこなかったのはありがたかった。 窓から山陰が霞んで見える。ちょうど、今日迷い込んだ山はあの辺りにあるはずだった。 でも、本当に奇妙な感じだったな。 一人残された部屋で、それをぼんやりと眺めながら、無意識に聖子はあの不思議な岩室の様子を思い浮かべていた。 HOME |