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蒼き焔の彼方に  20


その日の夕方、和久が病室を訪れたが、聖子は一緒には戻らずそのまま居残った。
彼女の強い勧めもあり、名木も今夜は自宅に戻ることに決めたようだ。

夜になり、売店で買った弁当で早めの夕食をとった聖子は、消灯時間の10時には部屋の電気を落とした。
常夜灯の、ほの暗い明かりしか光源のない部屋で、聖子は背の低い付き添い用の簡易ベッドに座って身動き一つしない佳奈を見上げる。
「何でこんなことになってしまったのかしらね?」

数ヶ月前、東京を引き払う佳奈と駅で別れたときには、こんなことが起こるとは予想だにしなかった。だから、急ななりゆきに一抹の不安を感じながらも、何も言わずに彼女を送り出したのだ。
それから今までにいったい何があったのか。
彼女から送られてくるメールには日々の生活の、ごくありきたりなことしか記されていなかった。何か解決に繋がる手がかりになるものはないかと、携帯に保存してあるメールを何度も読み返したが、それらしきことは一行も書かれていない。

彼女の心を読めば、何か分かることがあるのだろうか。

本当に和久やサダが言うように、佳奈が何かに「憑りつかれている」のであれば、本人にはその要因が分かっているのかもしれない。しかし、聖子はどうしても彼女の心の中を探ることに罪悪感と恐怖を覚えてしまい、それをできないでいた。
和久たちはああ言ってはいるが、この状況が長く続くようなら、いずれは佳奈の家族に連絡を取るしかないだろう。
もしもの場合…などということは考えたくもないが、今の佳奈の様子を見る限りでは、その覚悟もしておかなくてはならないかもしれない、と彼女は悲痛な思いに捕われた。
「ごめん、佳奈。何もしてあげられなくて…ごめん」

聖子は小さく溜息をつくと、用意してあった毛布を被って目を閉じる。慣れない場所で横になってもすぐには眠れないだろうが、たとえ起きていたとしても今の自分にできることは何もないことはよく分かっている。
寝心地の悪い簡易ベッドで何度も寝返りを打ちながら、ようやく彼女が寝入ったのは、日付か変わった頃のことだった。



「ああ、もう少し…あと少しだったのに」
真夜中、その声に目を覚ました聖子は、どういうわけか自分が草むらに転がっているのを感じた。声は自分の中から聞こえている。しかし、覚えのある自分の声ではなかった。
不思議に思いながら起き出そうとするがまったく身体に力が入らない。

何で私、こんなところにいるんだろう?

周囲には病室の白い壁や淡い常夜灯もなく、屋外の鬱蒼とした雑木林の中に漆黒の闇がひろがっているだけだ。
そこでの自分は、見たこともないような着物を着て、どうやって結えばよいのかも分からない結髪が半分崩れたように顔にかかってきていた。身形はぼろぼろ、足には何か布を巻いていた痕跡があるが、それも半分ほどけかけていて、その先に目を遣ると、布包みの荷物と枝を折っただけの粗末な杖が転がっているのが見えた。

「あと少し、もう少しで帰れたのに…」
そんな囁きが、口から漏れている身体。それは自分のものであるという感覚があるのに、自分の記憶にはないものでもあった。

これは、私?
聖子は、混乱しながらも、今自分が宿っている身体の記憶を遡る。

数日前から体調を崩した「自分」は、それでも最後の力を振り絞ってこの峠まで上ってきた。あとあの山を越えれば目指した場所に戻れる。それだけを縁に。

都を出てから早ひと月以上。
途中、追いはぎに遭い供の者を失ってからは、できるだけ人目につかないようにわざと里から離れた場所を選んでここまできた。彼女が持つ不思議な力で山賊や、落人、それに無頼の輩は避けることができたが、病だけはどうすることもできなかった。
ここまで来て行き倒れるとは。あと少し、もう少しでたどり着けるはずだったのに、なんと口惜しいことだろう。

使える力はすべて使い果たし、もう動くことさえできないほど身体は弱りきっていた。それでも彼女はずっと、今もある一つのことだけを心の中で願い続けていたのだ。
―― 帰りたい、あなたの待っている、あの場所に帰りたい。


聖子は必死に自分であり自分ではない女性の身体を起きあがらせようとした。だが、すでに限界を超えている身体は頭を上げることすら叶わない。
声をかけようにも音としての声は出ず、聖子は呼びかけるために無意識に内側から女性の心に入り込もうとしていた。

「あなたは誰?どこに帰りたいの?」
すると薄れゆく意識の中、彼女は最後の力を振り絞って片方の手を上げた。そしてある方角を指差したのだ。
聖子は「自分」が最後に示した方角に目を遣ったが、その先には闇が広がるばかりで、何も見えなかった。

村に。あそこには、あの人がいる。あの人が私を待っている…。

女性は聖子の問いかけに、心の中でそう答えると、静かに目を閉じた。ぱたりと落ちた手は力なく、それは女性がすでに事切れたことを物語っていた。

自分で自分の死を見取るなんて。
しかし今、現実に自分は生きているのに、自分の身体は死んでしまったのだ。
一つの身体に二つの魂が存在することなどあり得ないと分かっていながらも、それ以外に説明がつかない。この見ず知らずの女性は自分であり、自分とは違う人格を持った人だった。
その時、聖子は自分がどこかに連れて行かれそうになっているのを感じた。実体がなく、感覚としてしか存在しない自分は、意志とは無関係にどんどん死んだ女性を離れ、暗闇に引きずり込まれていく。


そして気がつけば、彼女は川中の橋げたにしがみついていた。
今度は少しは知識のある、時代劇に出てくるような町娘の格好をしている。ただ、未成熟な身体つきから、まだ彼女が年若い娘であることは感じられた。

こんなところで死ぬわけにはいかない。

彼女はありったけの力を振り絞り、柱にかじりついた。
数日来の雨で増水した川は容赦なく自分を押し流そうとしている。
慣れない川べりを歩いて逃げていた彼女は、足を踏み外して川に落ちた。もうどのくらい川下に流されたのかは自分でも分からないくらいだ。

聖子は再び自分が宿った娘の心を探った。
今の自分である彼女は商人の娘。商売で縁のあった大店の息子に縁付けようとする両親に逆らったがために土蔵に押し込められてしまう。
やっとのことで逃げ出したものの、追手に追われて落ちた川に流されてしまったのだ。
水を含み、重くなった衣が彼女の身体を水の中に引き込もうとする。何とか川面に出ていた顔が少しずつ水中に沈んでいくのを感じた。

こんなところで一生を終わることはできない。自分には帰らなければならない場所があるのに…。

結局娘は力尽き、水底へと沈んでいった。娘の意識が途切れた瞬間、聖子は自分も一緒に死んでしまうのかと覚悟をしたが、またしても彼女はその場から引きずり出された。

それからも次々と、目まぐるしく場面は変わっていく。
ある時は対峙する大名家に人質として差し出された姫君、またある時は貧しい農家に生まれ、僅かな金と引き換えに廓に売られた娘だったこともある。彼女たちは意に反した境遇にから逃れることができないと悟ると、絶望の中で若くして自ら命を絶った。かと思えば、羽振りの良い商家の娘や深窓の令嬢として多くの使用人たちに傅かれていた場面にも遭遇したが、いずれも彼女たちは成人することさえできないまま短い人生を終えた。
まるで短い映画を立て続けに見ているようだった。
もちろん聖子にとってまったく身に覚えのない、様々な時代を生きた女たち。しかしなぜかそのすべてが自分自身であることも、彼女は本能的に悟っていた。

生まれ変わる都度同じ様な場面に遭遇し、その度に「自分」が息絶えるのを感じ続けた。なぜか彼女たちは判で押したように、皆一様に志半ばで無念の死を遂げる。
彼女たちが捕われた思い、それはただ「あの人が待つ場所に帰りたい」ということだけだ。
「あの人」が誰なのか、それはどこなのか。明確なものは分からないままに、彼女たちは最後の瞬間までそれだけを願っていた。

もう止めて。こんな辛い思いはもうたくさん。

何度「死」の体験を繰り返したかも分からなくなり、堪らずそう叫び出しそうになった頃、ようやく彼女は簡易ベッドの上で目覚めたのだ。
時計を見ると朝の5時前。
数時間は眠ったはずなのに、体中がだるく、倦怠感が抜けていない。

「嫌な夢を見たな」
聖子は病室に備え付けされた洗面台で顔を洗うと、正面にある鏡を見つめた。
そこにあるのはいつもの自分の顔。
だが夢の中では、彼女はいつも違う顔を持ち、違う名で呼ばれていた。どの名にも、もちろん心当たりはない。だが、彼女は迷うことなくいつも普通に使っているかの如く、呼ばれた名に答えていた。
薄く隈のできた目元を押さえながら、彼女は凝った身体を解そうと首を回す。
「気のせいよ。まったく、夢見が悪いと気分が滅入るわ」


朝一番に名木が病室に現れた。しばらく付き添いを任せ、その間に身支度を整えてから再び交代するつもりで、聖子は和久が差し向けた迎えと共に一旦彼の家に戻っていた。
しかし、その短い間に事態が急転する。




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