そう、あれは確か突然の大雨とかなり大きな地震に見舞われた夜のことだった。 眠っていた佳奈の元を、突然サダが訪れた…と記憶している。 微妙な言い方だが、実際にサダがここに来たのを見た者は誰もいない。当直の看護師も、夜警の警備員も、彼女が聞いて回った限りでは、誰もそれに気付いていないようだった。当の本人である佳奈自身も、その夜の記憶がなぜか今ひとつはっきりとしない部分があり、何を持って「来た」と断じることもできないのがもどかしい。 真夜中過ぎのことだ。室内に人の気配を感じた彼女は、目を覚ました。 その時既に、あと一、二週間ほどで退院できるまでに回復していた佳奈はベッドから起き上がると、常夜灯の淡い光の中に佇む人影に目を凝らした。 「サダさん?」 小柄で、腰の曲がった立ち姿は、まさしくサダのもの。だが、彼女は頷くだけで、いつものように声をかけてこようとはしなかった。 「どうしたの?こんな夜中に」 打ち付ける激しい雨の音が、窓を閉めていても聞こえてくる。そんな中、老人が一人でこんなところまで出向いてくるような理由が佳奈には思いつかなかった。 その問いに答えることなく、サダはすっと漂うようにベッドの側に近づいてくると、彼女の手を取り、ぎゅっと握り締めた。 『あんたの助けが必要になったのじゃ。一緒に来てくれんか?』 耳から聞こえるのではなく、頭の中に直接響いてくるような低くくぐもった声に、言いようのない恐怖を感じたのは事実だ。だが、それ以上に切迫したサダの様子に、佳奈は迷わず頷いた。 「いいわ。すぐに着がえるから、ちょっとだけ待って。でも、一体どこに…?」 佳奈はそう言いながら、パジャマのボタンを外しかけて、ポケットの中に何かが入っていることに気が付いた。お気に入りの、小さなガラスの飾りの付いたヘアピンだ。前髪を留めるのにいつもポケットに入れているものだが、失くしては大変だと、咄嗟に側にあったガラスコップの中にそれを落とした。 『そうか、助かるよ。ありがとう』 サダはそう言うと、まだパジャマを着たままの佳奈の手を取り、自分の額に押し付けた。 その瞬間、佳奈は自分の身体から抜け出して、サダの中に吸い寄せられるような錯覚を覚える。そこで感じたのは、遠い昔の、忘れていたような感覚。懐かしいような、それでいて悲しいような、一体どこから出てくるのか分からない感情が自分の中に湧き出し、溢れそうになってくる。 「サダさん?」 『そうじゃな、あの時もこうして懐に…いや、今は感傷に浸っている時ではないな』 何か言おうとしたサダにそれを問いただす間もなく、二人はどこかに向かって闇の中を突き進む。 そしてたどり着いた先にあったのは、蒼白い光の渦。 その中心のある珠に自分が吸い込まれたところで、彼女の記憶は途切れていた。 それから何があったのかは分からない。 翌朝、自分は眠った時と同じようにちゃんとベッドに寝ていた。倦怠感はあったが、身体の調子はどこも悪くない。 「夢だったのかな」 だが、いつものように、顔を洗おうとした時、ポケットにヘアピンが入っていないことに気が付いた。 「あ、ピンが…」 慌ててベッドの側に戻ってみると、ヘアピンはコップの、それもまだ半分水の入った中に沈んでいた。 「ううん、やっぱり夢なんかじゃない。だって、普通ならこんなこと、寝ぼけていたって絶対にしないもん」 だが、名木に言ってみても信じてくれない。いや、彼だけでなく、夜勤だった看護師も、夜間に病棟を巡回している警備員も、彼女が聞いて回った人たちは誰一人としてその姿を見たという者はいなかった。 「多分寝ぼけてたんだよ。それか、予知夢とか」 「予知夢?」 それでも諦めきれず、「絶対に見た」と地団太を踏む佳奈を宥めながら、名木が衝撃的な事実を伝える。 「ああ。実はそのサダさん…おばば様だけど、昨夜急に亡くなったらしいんだ。今夜通夜で、明日葬儀だって、関口さんが。もしかしたら、おばば様は佳奈に最後のお別れを言いに来たのかもしれないぞ」 「嘘…」 今思い出しても、あれは断じて惜別の場面などではなかった。サダは一緒に来て、力を貸して欲しいと言った。けど、何に対して? それがどうしても思い出せない。 そしてサダの葬儀の手伝いで名木が忙しくしているうちに、話はそのままうやむやにされてしまい、佳奈の中には何となく釈然としないものが残されることになった。 彼女の退院の日、暫くぶりに病院に現れた聖子にそれを訴えようと思っていたのに、突然の報告に用意していた言葉はすべて吹き飛んでしまう。 「結婚?誰が誰と?」 聖子と、その少し後ろに立っていた瀧澤が同時に渋い顔をする。 「あの…私と、その…瀧澤さんが」 「聖子と社長が?またまた、ご冗談を」 それを笑い飛ばした佳奈は、本気とは受け取らない。 「それが、本当なのよ」 「嘘、本当に?マジで?本気で結婚なんてする気?一体どうなってるのよ」 「ほ、ほら、佳奈。前に俺が言っただろう。お二人は付き合っているんじゃないかって」 佳奈の鼻息の荒さに、名木が慌てて取り成そうとするが、疑問に向かって突っ走る佳奈をその程度で黙らせることは不可能だ。 「確かに言ってたわよ。でも何でこんな急に?おかしいわよ、絶対。何があったのよ?ねぇ。」 それを見た聖子が、諦めた様子で溜息をつく。 「あの…ね、佳奈。実は…その」 「先日、妊娠しているのが分かってね。取り急ぎ籍を入れてしまおうということになったんだ」 「にっ妊娠って、誰が?」 「言っておくが、私ではない」 真顔でそういう瀧澤に、名木がどうフォローしてよいか困惑しているのが分かった。 「当たり前ですっ。あ、あなたねぇ、いつの間に聖子に手を出して…」 「佳奈」 「佳奈、もう勘弁して」 名木の諌める声と、聖子の情けない哀願の声が重なる。 「それで、もちろん、聖子を幸せにしてくれるんでしょうね」 しっかりと頷いた瀧澤に、佳奈も満足げに頷き返す。 「そう、分かりました」 そして彼の胸元に、人差し指を突きつけて、高らかにこう宣言したのだ。 「それじゃぁ、私と彼が証人になりますから、その言葉、一生忘れないでよ、絶対に!」 聖子たちの結婚式は、瀧澤の地位や財力から考えるとかなり簡素なものだった。 式に出席したのは、瀧澤の親族数名と聖子の両親と妹、それに佳奈だけだ。 その後、会社関係者や地域の有力者たちも交えて催された披露宴も、少し豪華なお食事会といった趣で、余興もお色直しもなく、2時間もかからずに終わった。 以前から知っていたが、聖子は家族との結びつきが薄い。今回も、無理やり彼女に実家の住所を聞きだして招待させたが、結局出席したのは前述の3人だけだ。 披露宴でたまたま隣のテーブルになった彼女の妹の美郷ちゃんとは時折連絡を取っていたみたいだけれど、それ以外の家族とは本当に没交渉になっているらしかった。 「もう少し、姉とは姉妹らしい付き合いがしたい」 そう言っていた美郷ちゃんとは、披露宴の後でこっそりメアドを交換した。 今回、聖子の出産にあたっても、彼女の両親は駆けつけてきてはくれなかったので、瀧澤が出張先から急遽戻ってくるまでの間、佳奈がずっと彼女に付き添っていたのだ。 彼女と両親の間にどんな軋轢があるのかは知る由もないが、せめて美郷ちゃんにはちゃんと報告をしようと、生まれたばかりの赤ちゃんを抱く聖子の姿を写メに収めた。 聖子には内緒で、メールしておこうと思う。 多分美郷ちゃんはご両親にそれを伝えるだろう。そこから先、どうでるかはあちらの親次第だ。 「ああ、何で私ってこんなにお節介なんだろう」 メールを送った後で携帯を閉じながら、一人呟く。 それでも友人の幸せそうな姿を見ることができた佳奈は、自分も満足げな笑みを浮かべながら、足取りも軽く、名木との待ち合わせの場所へと向かったのだった。 HOME |