「しかし、まさか聖子が先にこうなるなんてね」 嘗て自分が長期入院していたのと同じフロア。 その数室隣の部屋で、佳奈が笑っていた。 病院の広く豪華な特別室は、すでに床が見えないくらい多くの祝いの品や花で埋め尽くされていた。 「自分でも驚いているわよ。まぁ、この状況は予定外だったし」 そう言いながら、聖子は腕の中にある小さな体をそっと揺らした。 友人で、元同僚でもあった聖子が自分の勤める会社のオーナーと結婚してから数ヶ月が経つ。 最初にその話を聞いた時、佳奈は「またまたご冗談を」と笑いながら言ってしまったのだ。それも、当の本人である聖子と、社長の瀧澤の目の前で。 あの時の名木の慌てようといったら、咄嗟に佳奈の口を両手で塞がんばかりだった。そんな二人の様子を見た瀧澤の、困ったような苦笑いと聖子のあまりにも深いため息を思い出すだけで、また笑えてくるのだが。 東京を離れ、この地に越してきて数ヶ月。 都会の便利すぎる生活に慣れきっていた佳奈は、やっと田舎の不便さにも不満を感じなくなっていた。 夜中に行くコンビニがなくても困らないし、テレビのチャンネルが一局や二局少なくても生活していくには問題ない。むしろ今では、時間に関係なく何でも欲しい時に欲しいものが揃うような、都会の夜行性の暮らしの方がよほど不健康なのだと思える。 恋人の名木との関係も良好で、近頃は将来の話もちらほらと出始めた、そんな矢先だった。 ある日目覚めてみたら、自分は知らぬ間に病院にいた。それも今まで入ったこともないような、豪華な個室に。 それまでにも多少体調が悪いとは感じたことはあったが、入院するほどだとは思えなかった。至極健康だった自分が、なぜこのようなところにいるのか。 聞けば、彼女が倒れて病院に運ばれた直後、瀧澤社長直々の指示で、この病室、特別室に入ることになったのだと聞かされた。 「こんな高い部屋、後で支払いが大変になっちゃう。普通の大部屋に移った方がいいんじゃない?」 物事をしっかり理解できるようになってすぐに、佳奈は名木にそう提案した。 だが、名木は「社長の命令なんだ。費用は全部持つから、ここにいろって言われている」とよく訳の分からないことを言う。 「私みたいな一介の平社員に、何でそんなご大層なものをあてがってくれるの?何か妙じゃない?」 「うーん、そのあたりは僕もよく分からないんだけどさ。とにかく良くなるまでは、ここにいることになるみたいだ」 佳奈は自分が置かれた状況が把握できるようになってからというもの、名木から少しずつ、今までの話を聞かされていた。 倒れてすぐに、聖子がわざわざ休みをとって見舞いにきてくれていたこと。その後、勤めていた会社を辞めて、ここに移り住み、佳奈の後釜として仕事を引き継いだこと等々。何となく記憶にある事柄もあれば、まったく分からなかったこともあった。 そして… 「はっきりとは言われたことはないけれど、多分、というか、まず間違いなく瀧澤社長と彼女は付き合っていると思うよ」 名木がそう断言したのだ。 「えーっ?でも、聖子ってば、本当に男の人が苦手なんだよ。できれば触りたくないっていうくらいに。それが、あの社長と?」 社長の瀧澤は、佳奈のような一般の社員からすれば、雲上の人である。普通ならば、直接話をする機会などほとんどないに等しい。たまたま名木が直属の部下にあたるため、偶然出会った時に紹介はしてもらったが、彼が自分を覚えているかどうかは怪しいものだと思っていた。 「ダメだよ『あの』なんて言ったら。それは幾らなんでも失礼だろう?」 名木がやんわりと嗜めてくる。 「そう?でも何となくね」 佳奈から見て、瀧澤は聖子が一番敬遠するタイプに思えた。男性的で知性的、しかし強引。 聖子もかなりの意地っ張りだ。彼のような男性と一緒にいると、何かと衝突するのが目に見えるようだ。 「まぁもう少し黙って見ていてごらんよ」 「分かった。聖子が何か言ってくれるまで、こっちからは聞かないようにしておくわ」 その翌日、数日振りに聖子が見舞い訪れた。 名木の手前ああ言ったものの、やはり世話好きなお節介の血が騒ぐ。 佳奈はそれとなく瀧澤とのことに探りを入れてみるが、聖子はなかなか本音を言わない。というよりも、彼女自身がまだはっきりと自分の気持ちを整理できていないようにも思えた。 「彼に言わせれば、社長は絶えずあなたを目で追いかけているそうだから」 そう言ってみても、渋い顔をするだけで、反応はいまひとつ芳しくない。 まぁ、仕方がないか。あの聖子が即、否定をしなかっただけでも、脈はあるってことだし。 だがその後、自分が行って具合が悪くなった地下の書類庫に彼女が入る予定があると聞いた佳奈は、それまでの浮かれ気分が吹き飛んだ。 聖子は「大丈夫よ」と言うが、自分があの場で感じた気味の悪さを思い出すだけで鳥肌が立つ。 「気をつけてね。一人では絶対あそこに近づかないで。私はそんなに勘がいい方ではないけれど、入った途端に嫌な感じがしたのよ。気のせいならいいんだけど」 念のために警告したが、責任感の強い聖子のことだ。多少何かあっても仕事だからと無理をするだろうから心配だ。 そして、佳奈は知ることはなかったが、その懸念は的中してしまう。 それからしばらく聖子は病院に姿を見せなかった。その代わりのように、サダさんというお婆さんが度々顔をのぞかせてくれる。 実はこのお婆さんには、以前一度会ったことがある。あれは前に勤めていた会社の社員旅行で初めてここに来たとき、博物館で偶然出くわしたのだ。 サダさんは、いつもここに来て彼女の額に手を翳しては、何かぶつぶつ言っている。最初は不気味で恐い感じさえしたが、不思議とそれをした後には身体のだるさが和らぎ、楽になるのが分かると、そんな不安もなくなった。 「それって一体何なんですか?」 ある時、いつもの「施術」が終わり、帰ろうとしていたサダさんを呼び止めて聞いてみた。 「これか?そうじゃな、『まじない』みたいなもんさ。あんたも子供の頃によくやっただろう?早く元気にな〜れってな具合のな」 そう言って歯の抜けた口を窄めて笑うサダさんが、ちょっとお茶目で可愛く見えた。 「いつもありがとうございます。何かそれをしてもらうと、本当に元気になる気がする」 それを聞いたサダさんがまたしても笑った。 「そうかそうか。あんたには早く良くなってもらわねばのう。儂だけでは事が足りん時は、あんたに助けを頼まねばならんかもしれん」 サダさんは、時々よく訳の分からないことを言う。一応ふんふんと聞いているが、頭の中で???となることもしばしばだ。大体、力もない、お金もない、こんな状況に私に、どんな『助け』ができるというのか。 そう思いつつも、とりあえずはふむふむと頷いておいた。 それから少し後に、まさか本当に『助け』を求められるとは露ほども思わずに。 HOME |