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I wish... 9


生まれた女の子は姉の希望どおり『まゆ』と名付けられた。
木綿子の他に、麻実からこの名を聞いた者はいなかったが、両親は何も言わずにその名前を受け入れてくれた。
出生届に書くにあたって、家族でいろいろな漢字を当ててみたが、どれもしっくりとこなかったので、結局は平仮名で「まゆ」として届けを出した。
まゆは月足らずで生まれたせいか呼吸器系が発達しきっておらず、黄疸も出ていたため、なかなか保育器から出ることができなかった。両親は母親の麻実と同じように心臓の病気を懸念していたが、検査の結果、今のところ心臓にはほぼ問題がないことが分かり安堵したようだった。

雑事に追われ、木綿子が再びまゆと面会できたのは麻実の葬儀の数日後だった。
看護師に渡された衛生服とキャップをかぶり、新生児室の隣のドアから入って行くと、そこには見たこともない医療器具がところ狭しと並んでいる。
初めて間近で見る保育器は、小さなガラスドームのような形をしていて、その中で赤ん坊が体のあちこちにモニター用のコードをつけられてもぞもぞと動いていた。
まゆは思っていた以上に小さかった。
まだ十分に皮下脂肪がつく前に生まれてしまったのか、新生児室にいた他の赤ちゃんに比べ手足がほっそりとして皺っぽく見える。その分お腹がぽこっと突き出ているのだ。
1700グラムにも満たないまゆの小さな体に触れようと、恐る恐る横の穴から保育器の中に手を突っ込む。指を数えることすら難しいほど小さな手に触ると、皺っぽい指できゅっと握られ、その力強さに密かに驚きを感じた。

お姉ちゃん…赤ちゃん、ちゃんと頑張ってるよ。

自分が産んだ娘を抱くことはおろか、顔を見ることすら叶わないまま逝ってしまった姉。どんなにか心残りだったに違いない。
麻実が生み出した小さな宝物にちゃんと命がつながっていることを改めて感じた木綿子は、思わず反対の手で衛生服越しに自分の胸元を握り締めた。
そこには麻実が残したリングが銀の鎖で下がっていた。


−◇・◆・◇−


慌しかった葬儀の後、木綿子は気が抜けたようにぼんやりとしながら姉の部屋を片付けた。
数日前まで麻実が使っていた部屋は、まだ日々の生活の匂いがそのまま残っている。
いずれここは子供の部屋になるだろうから、それまで触らないつもりだったが、一通りいらないものをしまい込み、ついでにゴミ箱のごみを捨てたりした。

自分はここで一体何をしているのだろう?
あまりに突然のことで何も感じられなかった数日。
両親や親戚たち、そして葬儀に参列してくれた友人たちが泣き崩れる中で、一人淡々と時間をやり過ごした。
本当に悲しいと泣けないなんて嘘だと思っていたのに、現実にそうなってみると、不思議なくらい涙は出てこなかった。

生まれた時からずっと一緒だったから、これからもずっとこのまま一緒にいられると思っていた。
何もかも半分ずつ、それが子供の頃からの二人の約束だった。
しかし、不公平な神様は、病気だけは半分にしてくれなかった。
きっと姉は木綿子の分も背負ったまま、逝ってしまったに違いない。
残された片割れの気持ちなんて、思いもしないで。

気を取り直して机の上にあった文房具をしまおうと引き出しを開けた。
するとそこには一通の封筒が残されていた。
表書きが木綿子宛になっている。
封がされていなかったところを見ると、麻実は後でまだ何かを入れるつもりだったのかもしれない。
あまりに急だった早すぎる死の訪れは、きっと姉自身でさえ予測できなかったに違いない。
麻実はこれで木綿子に何を伝えようと思っていたのだろうか。
子供の父親のことだったのだろうか。
それとも未来に託す夢だったのだろうか。
今となってはもう、誰にも分からないのだ。

そう思うと突然涙がこみ上げてきた。
今までずっと、泣きたくても泣けなかったのに…。
かすむ目を拳でぐいっと拭うと封筒を手にとり、さかさまに翳す。
軽い音と共に中から出てきたのは細身の金の指輪だった。
細かい彫刻の施された、繊細なデザインのリング。
だが、それはサイズが小さすぎて木綿子の指には嵌るものではなかったので、麻実のリングなのだろう。

思えば麻実は体が自由にならなかった分、昔から手先を使う趣味をたくさん持っていた。
多分この凝ったデザインのリングも彼女のハンドメイドだ。
大学に入る前から銀細工や彫金に興味を持ち、習っていた時期があった。大学を辞め家に戻り、医者から根を詰めることを止められていたことを考えると、その前から用意していたものなのかもしれない。
まゆが成長し、自分の出生の事情を受け止めることができる年齢になったら、その時にこれを渡してあげよう。
母親のせめてもの形見に。

木綿子は封筒だけ元通りに引き出しに戻した。
そして自分に託されたリングを握り締めると、それを額に押し付け、姉を思い、堪えきれなくなった涙に咽んだ。




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