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I wish... 8


その日は通常の定期健診のはずだった。
前夜からお腹の軽い引き攣りを訴えていた麻実は、母に付き添われ、掛かりつけの病院へと向かった。
予定日までにはまだ2ヶ月近くあったが、すでにその頃には心臓に疾患をもつ麻実に対して、出産時に特別なプロジェクトチームが組まれることが決まっていた。
産婦人科医は体に負担をかけないよう、できるだけ適切な時期に帝王切開による出産を決めた。そのためあらゆる計画が麻実の体調に合わせて進められていた、そんな矢先だった。

「胎児の心音が聞こえなくなっている」
診察した医師はすぐに判断をくだした。一刻の遅れが子供の命を救えるかどうかの鍵となる。まだ決して安全な月齢とはいえないが、このまま放置すれば母子共に悪い影響がでる恐れがあるというのだ。
「すぐに帝王切開にかかります。準備をしてください」

仕事に出かけていた父親がすぐに呼び戻された。
大学が休みで家で留守番をしていた木綿子は、母からの電話を受けすぐに必要な荷物をまとめ病院へと走った。
すべてが急であっという間の出来事だった。
それから1時間後、病室で横たわる麻実の周りに家族が集まる。
両親は看護師に促され、書類を作るため少しの間だけその場を離れた。
「木綿ちゃん…」
麻実は事前に打たれた点滴の薬のせいか、ぼんやりした声で木綿子を呼んだ。
「お姉ちゃん、もうちょっとだから頑張ってきてね」
そう言うと麻実は焦点の定まらない目でこちらを見つめ、小さく頷いた。
「赤ちゃん、の、名前、『ま、ゆ』に、して、ね」
彼女はそう切れ切れに呟いた。事前の検査で子供が女の子であることは知らされていた。きっとその名前もずっと彼女が考えていたに違いない。
「まゆ?お姉ちゃん、どういう字を書くの?」
答えはなかった。すでに意識が朦朧としているようで小さな声で「ゆう…」とだけ呟くと目を閉じ静かに寝息を立て始めていた。
麻実の目が木綿子を見ているのではないことは分かった。では「ゆう」とは…?木綿子ははっとして麻実を見た。もしかしたらそれは子供の父親の名前ではないのだろうか。
確かめようと何度か名を呼んだが、麻実は眠りに落ちたまま目を開けることはなかった。


しばらくして両親が部屋に戻ってくると同時に手術室の準備ができたという知らせが入り、二人の看護師がストレッチャーを引いてきた。
しかし、麻実の様子を見た看護師が眉根を寄せた。
「容態がおかしいの、すぐにドクターに連絡して」
点滴のチューブを引き抜くほどの勢いで麻実を抱き上げ、ストレッチャーに載せかえると看護師は駆ける様にエレベーターに向かった。
何が起こったのか、自分たち家族には何も分からなかったが、とにかくついて行けるところまで麻実の側を離れなかった。
あっという間に麻実は手術室の中に消え、そして扉が閉ざされた。

それからの時間、両親と木綿子は身動き一つできないまま廊下のベンチに座り込んでいた。
誰も何も言わなかった。
ただ静かに時間だけが過ぎていった。


突然手術室の扉が開いたかと思うと、保育器を引いた看護師が出てきた。
「何とか赤ちゃんは無事生まれました」
彼女の押す機械の箱の中で小さな体が動いていた。
それは自分が見たことのある赤ちゃんより一回り、いやもっと小さかったかもしれない。その子はか弱い泣き声をあげることすらできなくて、しゃくる様にようやく息をしているのが分かった。
一瞬立ち止まっただけで、看護師はすぐに新生児室のあるフロアへと去って行った。
父と木綿子をその場に残し、母は慌てて看護師のあとを追ってエレベーターへと消えた。
それが自分たち家族がまゆを見た最初だった。

母はすぐに戻ってきた。子供が新生児室に落ち着いたのを遠目で確認してすぐに引き返してきたようだ。
その後、じりじりと時間だけは過ぎていくのに、麻実はなかなか手術室から出てくる気配がない。
ようやく手術着の医師が扉からでてきたのは、それから1時間以上もあとになってからだった。
「何とかお子さんは助けることができました。ただお母さんが…」
皆の顔に緊張が走る。
「手術前から昏睡状態に陥っていました。通常ではあの程度の投薬ではこういうことは起こりえない。特に彼女には心臓に負担の少ない特別な分量の処方がされていましたから。投薬自体が一種のショック状態を引き起こした可能性があります」
「それは、一体どういうことなんですか?」
母が医師に詰め寄った。
「大変申し上げにくいのですが…もしかしたらこのまま意識が戻らず心肺停止に陥る可能性があるということです」


手術室から出てきたものの、麻実はそのまま集中治療室へと運ばれた。
麻酔が切れる時間になっても反応を示さないままで、室内には彼女の命を繋ぎとめる人工呼吸器の乾いた音が規則的に聞こえているだけだった。

押し黙ったまま、誰も何も話そうとしない。
ただ虚しく時間だけが過ぎていった。
集中治療室は面会時間が短く限られている。
何の成果もないまま、仕方なく家族は廊下の端にある待合スペースへと追いやられた。
そして夜半近く、容態の急変を知らされた家族は急遽入室を許された。
すでに麻実の周りには医師たちが詰め、心臓マッサージを繰り返していた。
幾度となく電気ショックが施されたがそれでも心拍を示す波形はどんどん弱くなっていくのが分かった。
そして、耳障りなアラームの音が響き波形がフラットになる。
しばらくマッサージを続けていた医師がそれを止めると、もう一人の医師がペンライトで瞳孔を確認した。
「午後11時38分でした。できるだけの手は尽くしましたが…残念です」


俄かには信じられなかった。
朝、母と共にいつもどおり出かけて行った麻実が、翌朝には物言わぬ帰宅をするなどと誰が予測できただろう。

それから数日は、あっという間に過ぎていった。
小さくなった麻実が入った箱は、急ごしらえの仏壇に置かれている。
それからしばらくは、あまりにも急だったため連絡もできなかった麻実の友人知人たちが訃報を知り、花やお供えを手に家を訪れた。
だが家族には悲しみにくれる余裕すらなかった。
まゆはまだ病院にいる。
一時の危機的な状態からは脱したものの、依然として気が抜けない容態が続いていた。
今となってはまゆだけが家族の希望であり支えだった。
何としてもまゆを守らなければ。皆ただそれだけを考えて日々を過ごしていた。




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