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I wish... 5


具合を心配したが、傷を3針縫った健太は週明けには額に大きな絆創膏を貼って登園してきた。
それを気にしてか幾分大人しくしていたが、無事抜糸がおわり邪魔なものがなくなるや否や、いつもの元気なやんちゃ振りが戻ってきた。
しばらく使用禁止になっていたブランコも、乗るときには常時だれか大人が付き添うことが決まったので、もうああいった事故は起きないと思う。
事故から数週間が過ぎ、いつもの日常が繰り返されている。

そして幼稚園は7月の最終週から夏休みに入った。
基本的に幼稚園は保育園や保育所とは異なり、長期の休みがしっかりとある。
途中に何日か登園日があるが、それ以外は園自体が休みに入るのだ。
夏休み中も教諭たちはほぼ毎日、管理や掃除も兼ねて3時間ほど園に通っている。平素できない事務仕事や遊具の補修などがおもな仕事だ。

絵本の破れをのりとテープで補修し終わり、一息ついて額の汗を拭う。
園児のいない園舎や園庭は静まり返っていて、聞こえるのは柵沿いに植えられた木の幹にとまる騒々しいくらいの蝉の声だけだ。
ふと園庭に目をやると、あの日健太がぶつかったブランコが揺らす人影もなく、焼け付くような夏の日差しの中に佇んでいた。


あれ以降、誘いはあったものの何かと都合がつかず、剛とは顔を合わせていない。
どうやらあの日のことも剛の母親と園長が何やら画策してお膳立てをしてくれたらしいが、残念ながら結局付き合いはあれきりになってしまいそうだった。

園長先生は仕事中は個人的に親しいことなど億尾にも出さないが、仕事を離れると何くれとなく彼女の面倒をみようとする。
木綿子の実家の事情を知っているので、事ある毎に「もっと自分のことだけを考えて楽しむことを覚えなさい」と背中を押してくれるのだ。
先生が言いたいことはよく分かっているが、なかなかそういう気を起こそうにも相手にめぐり合えないのだから仕方がない。
そもそも昔から男性に縁がなく、大学生になってからも家のことでいろいろとあったせいか、木綿子は異性とちゃんとした付き合いをしたことがない。男性と一緒にいたところで、気の合う仲間かせいぜい友人で終わることが常だった。

そんな彼女を心配して、学生時代に何回か強引な友人の紹介で男の人に引き合わされたこともあったが、自分の、俗に言う『分かりやすい』性格を誤魔化しながら相手に合わせるのは苦痛だった。
ただ、剛と一緒に食事をした時には不思議とそんな苦手意識を持なかった。
何をしてもそれなりに受け答えをしてくれる、彼の懐の深さは年齢ゆえのものなのか。話をしている分には、ぽんぽんと小気味良く繰り出される軽口に年齢差はあまり感じなかった。
相手を傷つけることなく、それとなく気にしていることを笑い飛ばすあっけらかんとした彼の豪快さは、口の悪さとは裏腹に好印象だった。
正直、いい人なのだと思った。
真っ直ぐに向けてくる視線も、堂々とした態度も、すべてが彼を魅力的に見せる。
その時にはそれ以上深入りするきっかけがなかったし、多分彼の方も自分をそういう目では見てはいないと思っていた。
きっと彼とも良い友人止まりで終わるのだと、少なくとも木綿子はそう思っていた。


−◇・◆・◇−


8月の始め、1週間のまとまった休みが取れた木綿子は、久しぶりにゆっくりと実家に帰った。
いつもは金曜日の夜に着いて、日曜日の夕方には帰るから実質2日いられるかどうかで、まゆの相手をしてやる暇もないことが多い。今度はしばらく一緒に居られることが分かると、まゆは大喜びでまとわりついてきた。

今、彼女の実家には両親と4歳になるまゆが住んでいる。
父は工作用機械のエンジニアをしていて、年中日本のあちこちの工場を飛び回っている。
あと数年で定年を迎えるのをことのほか楽しみにしていて、暇になったらあれをやりたいこれもやりたいとまだまだ意欲満々だ。
母はずっと専業主婦をしている。
若い頃はバリバリのOLだったこともあると本人は言っているが、少なくとも木綿子が物心ついたときからはずっと家にいてくれた。自分と姉の麻実が双子だったので、一度に手がかかり必然的に主婦にならざるを得なかったのだろうが、今でもバイタリティー溢れる元気な母親だ。
最近は、まゆの幼稚園の若い母親仲間たちに混じってエアロビクスなどもやりだしたと父がぼやいている。強引に母のレオタード姿を褒めさせられて辟易している父親の姿が目に浮かぶようだ。
木綿子たち姉妹の名前に木綿と麻という生地の名がつけられたのは、彼女の絹代という名前に由来する。つまり母親が絹、娘が麻と木綿と、みんな布にちなんだ名前という父のこだわりだ。
そしてまゆ。
彼女は家族中が目の中に入れても痛くないほどかわいがっている、我が家のアイドルだ。
まゆは、表向きには木綿子の妹として両親が育てているが、本当の姉妹ではない。
まゆの本当の母親は木綿子の姉だった麻実。出産時に命を落した彼女に代わり両親、つまりまゆにとっては祖父母と一緒に暮らしている。
木綿子はまゆにとって姉であると同時に叔母でもあるのだ。
早産で生まれたため、まゆは生まれながらに呼吸器系が弱く、ひと月以上も保育器の中で育った。無事退院してからもなかなか体重が増えず、母と木綿子が交代で夜通しつきっきりで授乳したものだ。

母曰く、今でも幼稚園で他の子に比べると少し小柄らしいが、それでも元気一杯ですっかりおませな女の子になった。
園でも先生たちに、口が達者な4歳児の典型だと言われている、と母が嬉しそうに教えてくれた。
ただ最近物事が分かるようになってきたのか、いろいろと亡くなった母親のことを聞きたがるようになった。
子供の頃に二人で並んで撮った写真を見ると、麻実の顔かたちは一卵性双生児の木綿子と良く似ている。そのせいで母親の面影を慕うのか、まゆは木綿子が側にいるときは素直に甘えたい素振りをする。
もちろん母にも甘えるが、母に言わせると、何となく甘え方に違いがあるそうだ。木綿子には分からないのだが、やはり無意識に、彼女の中に記憶さえ持たない母親の影を追っているのかもしれない。

まゆの母親が麻実であることはみんな知っている。
古くからの近所付き合いで、本当のことを隠し通すことなどできないことが分かっていた家族は、敢えて最初から堂々とそれを公表したからだ。
陰では何か言われていたのかもしれないが、少なくとも近所の人たちはまゆのことを温かく迎えてくれた。
母も麻実のことを振り切るように、ことさらに孫のまゆを近所に連れ出しみんなに見せびらかしてまわった。
今のまゆの物怖じしない明るさは、母の努力の賜物だと木綿子は信じている。

けれど一つだけ、家族が恐れていることがある。
それは将来、まゆに自分の父親のことを尋ねられたときのことだ。
麻実は誰にも詳しいことを打ち明けなかった。
相手がどんな人だったのか、正確な歳も職業も今どこに住んでいるのかも分からない。名前さえ明かしてはくれなかったのだ。
ただ一度だけ、麻実が彼の名を呼んだことがあった。
それはまゆに全てを捧げ、託したあの時。
木綿子はあの日のことを生涯忘れることができないだろう。
まゆがこの世に生を受け、そして麻実があの世に旅立った日のことを。




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