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I wish... 4


彼は石崎 剛(いしざき・ごう)と名乗った。
独身。外科医。32歳。
今まで互いの名も知らずに会話を成り立たせていたのだから、これはある意味すごいことかもしれない。
いや、少なくとも彼の方はこちらの名前を知っていたようだ。
何せ昨日あれだけ園長先生や健太君から「木綿子先生」と呼ばれていたのだから、私の名前が「ゆうこ」であることはすぐ分かるというものだろう。

しばらく他愛もない話をしながら、何気なく彼を観察する。
鼻筋の通った綺麗な顔つき、少し冷たく見えるシルバーフレームのメガネと切れ長な目、涼やかな口元。好みのタイプとは言いがたいが世間一般的にはハンサムという部類に入る顔立ちだと思う。
店に入る前に並んで歩いた時の感じでは、身長は180センチくらい、マッチョな感じではないが、何かスポーツをしているのかTシャツから見えるむき出しの腕には綺麗な筋肉がついていた。
木綿子自身、学生時代はバレーボールをやっていたこともあり168センチの身長がある。女としては大柄な方だ。
幸か不幸か上背があるのでそこそこのスタイルが保てているが、細いウエストや小さなお尻はまだ良いとして、胸までが小さいのは悩みのタネだ。


「ふーん、それで木綿子先生は親元を離れてこの町へ?」
連れて来られたのは意外にも、小さな割烹料理屋だった。
互いの身の上話などを肴に、ちびりちびりと冷酒をいただいている。
目の前で板さんの作る料理をつまみ、酒が進むうちに何となく彼のことも分かってきた。
「ええ。希望の職が見つかっただけでもラッキーでした」
子供の数が減っていて、それに伴い教諭の口も少なくなってきている。
今では幼稚園も生き残りをかけていろいろな特色を打ち出しているが、それでも近隣の子供を全部取り込むことができないのが現状だ。
要は就職難なのだ。
家から通えないからといって、せっかく決まった勤め口を棒に振るような贅沢は言っていられない。
それに園長先生は木綿子の母親が子供の頃からの知り合いで、その伝手もあって何とか大学を出た時に今の幼稚園に押し込んでもらったいきさつがあった。

「通えない距離ではないけれど、電車とバスで片道1時間半くらいかかるので。朝、早番の時だと7時半には園に行ってなきゃいけないですから」
新入りは特にそのお鉢が回って来やすい。
家庭があり、子供を持つ先生もいるので、朝はどうしても身軽な独身者に委ねられがちなのだ。
「まぁ確かに毎朝6時に家を出るっていうのは少しきついかな。それで近くに住むところを借りて一人暮らしをしているということなんだな」
「あなたのお宅のような豪邸ではありませんが、一人で住むのには十分ですよ」
実際、借りているのは1LDKの独身者用マンションだ。家賃も手ごろだし、何よりセキュリティー機能がしっかりしているのを見た両親が気に入って入居を決めたのだ。
「それは違うな、木綿子センセ。俺は…」
「ストップ!」
急に話を遮ると、木綿子は剛をジロリと睨みつけた。
「さっきから何度も。その『先生』っていうの、止めてもらえません?」
「でも『先生』には違いないだろう?」
「でもあなたの『先生』じゃありません」
「なら、なんて呼んだらいいか?」
「え、えっとぉ…」
「木綿子チャン?」
「軽すぎません?」
「木綿子嬢」
「何か、キャバクラのお姉さまと間違えてない?」
「ゆうちゃん」
「………」
彼はうーんと腕組みをして真剣に悩む振りをしているが、その実こちらの反応を見て楽しんでいるのは明白だ。
「何で名前なんです?苗字で呼んでくださっても私は一向に構わないですけど」
「俺は構う。君の苗字は呼び辛い」
たしかに市瀬(いちのせ)という苗字は少し、特に子供には呼びにくいらしい。だから幼稚園でも子供たちが呼びやすいように、木綿子先生と呼ばせているのだ。

「木綿子」
「えっ?」
「木綿子、これで決まりだな」
「何気に呼び捨てですか?」
剛は、いかにも嫌そうな様子の木綿子を涼しい顔で見ている。
「嫌だと言うなら『木綿子先生』でもいいぞ」
その満足そうな顔が癪に障るが、とりあえずそれで手を打つことにした。大体通りの反対側から若い男性に「木綿子先生!」なんて大声で呼び止められたら恥ずかしい。

「では、あなたのことも剛って呼ばせてもらうわよ」
負けじと少し当てこすりも込めてそう言ってみる。実際に男の人を、ましてや年上の人を呼び捨てなんてできるかどうか分からなかったけれど。
「それで構わないよ、別に」
彼はそう言うと、何か思いついたらしく、にやりと嫌な笑いを浮かべた。
きっと良からぬ事を考えているに違いない。
「じゃあ試しに呼んでみてよ」
「え?」
「え?じゃなくて。実際目の前にいるんだから呼んでよ」
「ご、剛?」
「何で疑問符がつくかなぁ。もっと大きな声出してみろよ」
「剛…」
「もう一回」
「剛…、あーもう勘弁してください。呼び捨てなんてできないから。『剛さん』でいいです」
「ふふん、やっぱりね」
彼はしてやったりという顔で鼻を鳴らした。
「無理だと思った。呼び捨てなんてできませんって、木綿子の顔に書いてある」
さらりと名前を呼ばれたことに、どきりとする。
体育会系の部活動だったから、チームメイトや同じ部の男子生徒に呼ばれることはあったが、大人になってから異性に、しかも下の名前で呼ばれたことはなかった。

「ところでさっきの話の続きだけど、俺は今あの家には住んでない」
剛はそう言うと、切子の猪口に入った冷酒を一気に飲み干した。
「去年まで他県の病院にいたからずっと一人暮らしだった。こっちに帰ってきても今更両親と同居もないものだから、医大病院の近くにマンションを買ってそこで生活をしている。
昨日はたまたま親父に専門書を借りに来たところを、運悪くお袋に見つかって駆り出されたってわけさ。当直夜勤明けで急患が入り、やっと昼過ぎに開放されたところだったのに、寝入りばなに叩き起されたかと思うと白衣を押し付けられて。あの時なら床でも寝られたな、何せ24時間以上寝てなかったから」

だからあんなに険しい顔だったのか。
昨日受けた屈辱の凹みが半分くらいに回復したような気がした。もちろん、全部なかったことにするのは到底無理だが。

「あの後、お袋とお京さん…あ、君のところの園長のことだけど、に散々に言われて。律儀な君のことだから今日絶対にTシャツを返し来るってお京さんが言うものだから。お袋がお詫びに飯でも食べさせてこいって。さすがに参ったよ、あのパワー系熟女二人組にかかったら絶対に逆らえない」

昨日はあれから園長先生と女医さんが話しこんでしまい、木綿子は一人でタクシーを使って園に帰った。
服はぐちゃぐちゃだし、何よりも彼との応酬でくたくたになっていた彼女に、同僚たちは定時で帰宅するよう勧めてくれたのだ。
「でも…あ、あのご、剛さん、今日お仕事は?」
「もちろん休み。昨日行きがかりとはいえ24時間勤務だぜ。たまには休ませてもらっても罰は当たらないだろう?」
「でも明日は普通にお仕事なのでは?こんなところでお酒飲んでいて、いいんですか?」
「明日って、よく考えてみろよ」
「えっ?」
そう言われれば、明日は土曜日だ。確かに大きな病院は外来が休みというところが多い。
「俺だって一応社会人だからそれくらいの分別はあるさ」
そう言うと、彼は例のきれいな指で優雅に箸を握り、小鉢から肴を口に運んだ。


店を出て、タクシーを拾えそうな場所まで二人でしばらく歩いた。
数日前に梅雨が明け、昼間は蒸し暑い天気が続いていたが、今夜は風がひんやりとして心地よいくらいだ。
「また飲みに行こう」
「そうですね、また誘ってください。機会があれば」
そう言って二人は別々のタクシーに乗り込んだ。
久しぶりに楽しんだ。美味しいお酒だった。
「また」があるとは思えないが、少なくとも最悪だった昨日の埋め合わせにはなったと思う。
木綿子は車窓から空を見ながら呟いた。
明日もよい天気でありますように。
また明日からは、いつもの日常が始まる。
手始めに朝起きたら…洗濯と掃除だな。




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