翌日、木綿子は借りた服を紙袋に入れ昨日世話になった病院を訪ねた。 あの後、落ち着いてから自分の身なりを見た彼女は絶句した。 肌蹴たエプロンは真っ赤な血で染まり、下のTシャツは健太の頭を冷やすのに使った保冷剤の水滴が滲みてごわごわになっている。 特に胸のあたりがひどく、ブラジャーのレースが薄く透けていたのだ。 ひどいことにブラジャーまで湿ってしまい、Tシャツにぴったりと張り付いているのがわかる。 血染めのエプロンをして帰るわけにもいかず、さりとてまだましとはいえ、下着の透けるTシャツのまま外を歩くわけにもいかない。 途方に暮れる彼女に女医が手渡したのは、袋に入ったままの新品のTシャツだった。 「愚息からのせめてものお詫びよ。あなた、背が高いから私のよりもこっちの方が良さそう」 メンズの、それもXLのシャツはだぶだぶで、中で身が泳いだが、濃紺の色合いは張り付く下着を隠すのにはちょうどよかった。 アパートに帰ってすぐに洗濯したものを返しに来たのだが、夕方仕事帰りに寄ったため、病院はすでに午後の診察が始まってしまっている。 タイミング悪く、診察室の中はてんてこ舞いのようだった。 木綿子は溢れかえる患者で混雑する待合を横目にしながら、受付の職員に遠慮がちに来院の目的を告げた。 「先生が、奥の自宅の方においでくださるようにとのことです」 取り次いでくれた職員が伝言を携えて来た。 服を返すついでに一言だけ昨日のお礼をと思ったが、どうやら今はそれどころではないらしい。 お邪魔にならないように早々に退散することにする。 一旦病院から出た木綿子は教えられた自宅の入口を目指し、駐車場から通用門を抜けて、続く中庭の奥まった所へと向かった。 細い敷石の道を辿って中庭をしばらく行くと、バラを生垣にしたアーチ型のくぐり門があり、そこを抜けると見事な庭が広がっていた。 広い芝生の中ほどによく外装の広告で見るような東屋が設えられていて、その端あたりから伸びるウッドデッキが家の軒先までつながっている。 あちらこちらにある花壇には色とりどりの花々が咲き乱れ、芝生の青さとの間に見事なコントラストを描いていた。 庭から玄関まではゆるやかなスロープでつながれていて、その奥に瀟洒な洋風の屋敷が建っていた。 美しいタイルが敷き詰められたポーチは置物や鉢花で品よく飾られ、訪れる客の目を楽しませるように設えられている。 木綿子はその上品な趣に少々怖気づきながら、ドアの横についている呼び鈴を鳴らした。 「はい?」インターフォンから女性の声が聞こえてきた。 「あの・・・昨日お借りした服をお返ししたくて、うかがったのですが」 「はいはい、奥様から聞いておりますよ。すぐ出ますからお待ちください」 カチャカチャと鍵を外す音がして、玄関のドアが開く。 中から顔を見せたのは白い割烹着を着けた年配の女性だった。 「まぁいらっしゃいませ。さあ、どうぞお上がり下さい」 「いえ、ここで結構ですので。これを先生にお渡し下されば…」 お礼の伝言を頼み、その場で用を済ませようとする木綿子を断固として家に上げようとするその人は、この家の家政婦さんだという。 「お客様にお茶もお出しせず、このままお返ししたら後で奥様に咎められます」 あの女医さんがそんなことをするはずがないことは分かっているのだが、そう言われてはむげに断ることもできなくなった。 仕方なく玄関に中に歩を進めると、その広さと優美さに驚きの眼差しを向けた。 テレビでよく見る豪邸の玄関。そこはまさしく次元の違う世界だった。 勧められ、履いていたサンダルを脱ごうとした木綿子は、思い出したように手を止め、スリッパを揃えて彼女を待ち構える老婦人を申し訳なさそうに見上げた。 「すみません、私…今日園で泥遊びの水をかけられてしまって、靴下をだめにしたんです。素足のままでこんな綺麗な床に上るなんてできません。やはりここでお暇させていただきます」 「そんなことを気になさらなくても」 頑として譲らない木綿子の姿に家政婦はしばらく何かを考えていたようだが、やがてにっこりと笑うとこう言った。 「ではそのまま庭の方へお回りください。あそこなら靴を脱ぐ必要がないですから、お気になさることもないでしょうからね」 勝手口から履物を履いて出てきた婦人に連れられて案内されたのは、今さっき見た東屋だった。 飲み物を持ってきますからと一人その場に残された木綿子は、今更逃げ出すわけにも行かず、仕方なくおずおずと入口から中を覗き込む。 3メートル四方くらいの八角形の天井は蔦のような緑で覆われていて、夕方の強い日差しを遮っているせいか、その下は思っていたよりもひんやりとしている。中には作り付けられた木製のテーブルとベンチが置いてあり、とりあえずそこに腰を下ろした。 そろそろ日が陰り、涼しい風が吹いてくる。 足元からは最近ではめったに見かけなくなった蚊取り線香の煙が立ち昇り、子供の頃の思い出を甦らせるようだった。 夏になると姉と二人で縁側に寝そべって、渦巻きの先端に息を吹きかけ真っ赤に燃えるのを見ていた。早く線香が燃え尽きると母親からよく小言を言われたものだった。 「蚊に集られてるぞ」 そんなことを考えながらぼんやりと庭を眺めていた木綿子は、背後から急に声をかけられて驚きのあまり椅子から飛び上がった。 「いつもそんな具合に夢の世界に住んでいるのか?」 相変わらず失礼な声の主は振り返らずとも分かった。 「いいえ!たまたまです」 彼は忍び笑いをしながら彼女の横を通り、向かいのベンチへと座った。 手にはアイスコーヒーとアイスティーを乗せたトレイが握られている。どうやら先ほどの家政婦さんが彼に給仕を頼んだらしい。 「どうぞ」 「どうも」 目の前によく冷えたアイスティーのグラスが置かれる。 半分ふてた様な声でぶっきらぼうに礼を言うと、また彼が、今度は我慢しきれないというように声をあげて笑い出した。 不思議なことにその笑い声に嫌悪を感じることはなかった。 清々しいくらい思いっきり笑い飛ばす姿に、むしろ彼女の方がつられそうになったくらいだ。 次に彼の口からこの言葉が聞かされるまでは。 「君は本当に分かりやすい反応をするね。すぐに顔に出るし。今どきの小学生よりも分かりやすくて見ていて飽きないよ」 最大級に失礼なことを、悪びれもせずさらりと言うと、彼は自分の前に置いたコーヒーを口に運んだ。 当たっているだけに余計に癪だ。 友人や職場の同僚からはいつも「分かりやすい」とか「隠し事ができない」と言われる。平常心を装っているつもりでも、どうやら自分の顔や態度はそれに従順ではないらしく、いつもからかいの的になってしまうのだ。 友人たちは「愛すべきキャラだよ」と慰めてくれるから、それでよしとしてはいるが。 そんなに自分は分かりやすい行動をとっているのだろうか。 多分そうなのだろう。会う人皆、異口同音にそう言うだから。 怒る気力もなく、諦めにも似た気持ちで視線を逸らすと、グラスを持つ彼の指に目が留まる。 男性にしては繊細で、きれいな指だった。 仕事柄だろう、爪は短くきちんと切り揃えられているが、それでも彼の縦型の爪と長い指は優雅さを感じる。 ぼんやりと彼の手を眺めていた木綿子は、急に自分の丸い爪が恥ずかしくなり、慌てて手を膝の上に置き直して視界から隠した。 「また夢の世界を彷徨っているのか?もしかして俺に見とれてる?」 図星を指された彼女はうろたえて真っ赤になりながら俯いた。確かに見とれていたのだ。ただし正確には『彼』にではなく『彼の指』に。 「そ、そ、そんなことないです…ただ、きれいな指だなぁ…と」 「指ねぇ…」 返ってきた返事が意外だったのか、彼はふむと顎に手をあてながら、自分のもう片方の指をまじまじと眺めている。 「まぁ商売道具だからな。外科医は器用さが命みたいなもんだから」 「でも男の人にしてはすごくきれいです…と思います」 「そう?ありがとう」 昨日会ったばかりの他人に向かって一体何を言うのかと自分で突っ込む間もなく、彼の口からは思いがけず素直な返事が返ってきた。驚きに目を丸くする木綿子を見て、彼はまた笑った。 「ところでこれから暇?食事にでも行かないか」 彼の申し出は唐突だった。 HOME |