石崎家には2人の息子がいた。 長男の剛、そして次男の優希。 剛は両親と同じ医師を志したが、優希は予てからの希望通り建築技師になり、大手の建設会社に就職していた。 二人の息子はすでに独立して家を離れ、剛はアメリカ、優希は東京でそれぞれの生活を送っていた。 そんな矢先に事件は起こった。 「多分、皆さんも覚えていらっしゃると思うのですが…数年前に中米でクーデターが起こり、日本人が多数巻き添えになった事件がありましたよね」 剛の母は何かを思い出すようにそこで大きく息をついた。 「あの時、息子も…優希もあの国にいたのです」 途上国開発援助を携えた優希が送り込まれたのは、国内でも最も中央部にある僻村だった。 交通の便が悪くて開発が遅れ、ライフラインがほとんど機能していない場所に新たな病院を建設するのが目的だった。 その一帯は大きな産業も無く貧しい地域だったが、比較的治安はよかったという。 日本から来たのは優希たち技術者の他、先発隊として入国したボランティアの医師、看護師など、総勢20人を越える大所帯だった。 医師たちは日本人宿舎の一棟を使って仮設の診療所を構え、仮診療を始めていた。そこには国際赤十字のメンバーも出入りしており、病院開設の準備は着々と進んでいたのだ。 そんな中、クーデターは突如として起こった。 ほんの数日で政府の出す渡航注意勧告は自粛となり、禁止のレベルに達した。 混乱の中、外国人たちの国外退去が始まったが、優希たち日本人のいた内陸地域にはその情報が伝わるのが遅れた。気がついた時には戦闘に巻き込まれ、すでに身動きが取れない状態になっていたのだと聞く。 それに追い討ちをかけるように空爆で、建設中だった施設はあっというまに風塵に帰した。多くの日本人がその時の爆撃の巻き添えになったのだった。 結局その地から脱出、帰還できた邦人はわずか3人。 死者不明者は20名を越え、日本の外交史上稀に見る大惨事となった。 「あの時、優希たちは建設現場に避難していたそうです。建築中とはいえ仮設の宿舎よりは赤十字の旗の下にある病院の方が安全だろうと。それで同僚たちと一緒に瓦礫の下敷きになって…」 結局彼らの遺体は一体も還らなかった。 大量の瓦礫と土砂。そして亜熱帯特有の気候が遺体の回収を困難にしたのだ。 3ヵ月後、内戦の混乱を縫って優希たちを派遣していた朝倉建設の親会社がプロの傭兵まで投入したが、膨大な私費を投じて回収できたのは僅かな遺品だけだったことは、国内ではほとんど報道されなかった。関係者とその周辺のみが知る事実だ。 「それが、これですの」 剛の母が側においてあった紙袋から取り出したのは、擦り切れ、泥にまみれたデイバッグだった。 爆撃を免れた宿舎も略奪に遭い、電化製品や家具、貴金属等、金目のものはほとんどなくなっていたという。 優希の使っていた部屋から回収できたのは、このバックの中に入っていたものですべてだった。 差し出されたバッグを受け取った木綿子の父親が、許しを得て中身を取り出す。 中から出てきたのはシャツ、煤けたタオル、判別のできない数枚の写真、そして薄い手帳だけだった。 「ここの間に指輪が貼り付けてあったんです」 剛が手帳の裏表紙をめくると、そこには厚紙を半分に剥がした跡が残っていた。 「多分、弟は自分が失くさないようにここに貼り付けていたのだと思います。結局はそれで気付かれずに略奪からも逃れることができたのだろうと」 その言葉を引き取るように、剛の母親が続ける。 「この指輪は亡くなった息子の、優希の遺品です。この指輪の…本当の持ち主は優希だったんです」 暫くはだれも何も言えず、ただ目の前に引き出されたものを呆然と見ているだけだった。 最初に写真を手に取ったのは木綿子の母だった。 「これ、麻実だわ」 覗き込んだ木綿子が目にしたのは、姉の姿だった。 濡れてふやけ、滲んではいるが、そこに写っていたのは紛れも無く笑顔の姉だった。 木綿子と姉の麻実は一卵性の双子だったが、一見したところではそれほど外見が似ているとは言われなかった。木綿子が大柄なのに比べ、持病のせいで麻実の成長が思わしくなかったからかもしれない。一緒にいても大概は友人か、良くても木綿子の方が年上の姉妹と思われることがほとんどだった。 今の木綿子とぼやけて不鮮明な写真を並べても、姉妹だと、それも双子だったとは誰も気付かないだろう。 それまで黙って話を聞いていた剛の父親が胸ポケットから何かを取り出した。 「これが下の息子の、優希の写真です」 剛と面差しの良く似た、しかし彼よりももっと若く柔らかな表情をした男性の写真だった。 「この子が娘さんの…いえ、お孫さんのまゆちゃんの父親です」 剛の両親が木綿子の両親に深々と頭を下げる。それこそ畳に額を擦り付けんばかりに。 「息子が不慮の事故にあった後、私ども家族はほとんど外務省や朝倉建設に詰めたきりになっていました。ほとんど入ってこない情報に苛立ちながら、とにかく無事であることだけを願って…。その間、優希の東京の部屋にも、ゴシップを求めてくる物見高い雑誌記者や、ワイドショーのリポーターたちが大挙して押しかけて来ました。その時の私たちの精神状態では、それをかわすことも容易ではなかったのです」 在京の親戚が入れ替わり立ち代りで優希の部屋の留守を守っていたのだが、その中の誰かが、何度か尋ねてきた若い女性を追い返したと聞いたのは随分後になってからのことだった。 その時は深く考える余裕すら無かったが、剛の話を聞くに及んで、それが麻実ではなかったのかと思い当たったというのだ。 今となってはもう誰にも確かめることはできないのだが。 「親族でなければ誰も保護してはくれません。役所も、会社もです。もちろん詳細な情報も与えられない。そんな状況の中で…優希のために、若いお嬢さんがたった一人でお腹に子供を抱えて、どれほど心細く辛い思いをしていたのかと思うと、お詫びのしようもありません」 「優希、って言うのね、弟さんの名前」 冷めたお茶を入れ直そうと席を立った木綿子を追って、剛も台所に入って来た。 「麻実が亡くなる直前、一度だけ名前を呼んだことがあるの。『ゆう』って」 あの時、宙を彷徨う目で姉が見ていたのは亡くなった恋人の姿だったのかもしれない。だからあんなに優しく微笑んでいたのだろう。 「これも、まゆちゃんに渡してくれるかな」 木綿子の手に握らせたのは、彼の弟が持っていた麻実のリングだった。 「ようやく二人のことが分かったんだ。せめて指輪くらい一緒にしておいてやろう、娘の手元で、な」 その日、夜更けまで二つの家族は互いの胸のうちを語り合った。 本当なら何年も前になされたかもしれない光景を、どこかで麻実と優希も見ていたのだろうか。 翌朝、起きてきたまゆにお父さんが分かったこと、新たにお祖父ちゃんとお祖母ちゃんができたこと、お兄ちゃんが伯父さんだったことを伝えたのは木綿子だった。 そしてもうすぐお兄ちゃんとお姉ちゃんが結婚することも。 まゆは目を輝かせて言った。 「わたし、女の子がいいな。妹はむりだから、「いとこ」でいいや」 気の早い言葉に両親は苦笑いし、木綿子はほんのりと顔を赤くした。 「わ、分かった。お兄ちゃんとちょっと相談してみるわね」 HOME |