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I wish... 20


2時間後、血相を変えて駆けつけた両親に連れられた木綿子は、病院の夜間外来にいた。
付き添いは母一人。父はまゆとともに車の中で待っている。
この歳になって親に病院に連れてきてもらうのは気恥ずかしい限りだが、自力では動くこともできない状態では止むを得ない。
自分より背丈の小さい母親に抱かかえられるようにして歩く不甲斐ない姿を思うと何とも情けないものがある。

「もうちょっと手当てが遅れていたら肺炎を引き起こしていたかもしれませんよ。数日は安静にして、体を休めて養生してくださいね」
当直の医師はそう言うと、脱水症状が出ているので隣の処置室で点滴を受けるようにと指示をして、彼女を診察室から送り出した。
固い処置室のベッドに横たわりながら、ぽたぽたと落ちる点滴を見つめているとまた涙が出てきた。
「水分を補給すると出やすくなるのかなぁ」
様子を見に来た看護師にそう言うと、一緒に笑ってくれた。

点滴は1時間ほどで終わり、その後1日分の薬を処方されて帰された。
木綿子はそのまま実家に連れ戻された。
処置室から出てきた時に目を腫らしていた様子に、普段の彼女らしからぬものを感じとった母が強硬に主張して譲らなかったのだ。
いつもの木綿子ならば何とかして自分のマンションに帰ろうとしただろうが、今の彼女にはそんな力は残っていなかった。
体力も、気力も限界に近かった。


「お姉ちゃん?」
そっと開いたドアの向こうからまゆが顔をのぞかせる。
「お祖母ちゃんがお薬を飲みなさいって」
そう言うと、トレーに載せたコップを危なっかしい手つきで持ってくる。
「ありがとう」
半身を起こした木綿子がコップを受け取ると、まゆはほっとした表情でトレーを背中に隠した。
「大丈夫?」
いつもと逆転した立場に苦笑いをしながら木綿子が頷く。
「もう熱も下がってきたし、背中や足が痛いのも治まったみたいだから」

実家に連れ帰られてからまる一日、ほとんどうつらうつらと眠っていた。
時折意識が覚醒したかと思えば猛烈な悪寒と関節痛が襲ってくる。熱によるものだと分かってはいたが、それでもかなりの苦痛だった。
薬の効果で何とか一晩は凌いだが、翌日になっても症状はなかなか良くならず、母に頼んで職場に連絡を入れてもらった。
園長先生からは、お見舞いの言葉と数日の休暇を頂き、回復できなければこのまま年明けまで休むように申し渡された。
あと数日で幼稚園も冬休みに入る予定だったので、仕事に大きな支障が出ないのが理由だった。
「さっきお兄ちゃんから家に電話があったよ」
まゆが無邪気に語る。
「でもお祖母ちゃんが“今眠っていますからお話しできません”ってすぐに切っちゃった」

ここに帰ってきてから一度、携帯の電源を入れた。途端に入ってきた何通ものメールと不在着信。
すべて剛からだった。
メールを見ることもできず、ただ呆然と携帯を握り締める木綿子の異変に気付いたのは母親だった。
母は迷うことなく強引に木綿子の手から携帯をもぎ取ると画面を見つめた。そして、表示と娘の顔を交互に見て、すぐに再び電源を落としたのだ。
「彼と何かあったの?」
虚ろな眼差しで母を見つめる木綿子の顔は、血の気が引き蒼白だった。
「うん、ちょっと…」
言葉を濁す木綿子に、母の鋭い視線が注がれる。
「ちょっと喧嘩しちゃってね。話をし辛くて」
ぼそぼそと呟くように言い訳をする娘に、ますます眉が上がる。
「ならいいけど。でもこのまま放っておくわけにもいかないでしょう?こんなに連絡をくれているのに」
「うん…もうちょっと良くなったら一回電話するから」
暗に今彼とは話をしたくないということを母に伝える。
「ちゃんとしなさいよ」
この時はそれ以上追求されなかったことに安堵したが、勘の鋭い母は木綿子の言ったことを頭から信じていたわけではなかったのだと思う。
だが、体調が戻るまでそっとしておいてほしいと願う木綿子の気持ちを母は分かってくれていたようだ。
今はまだ、両親に対して、そして剛に対しても筋道立てて話ができる状況ではない。

「それ、飲んだら持っていくね」
水の入ったコップを手にしたままぼんやりとしていた木綿子を促すように、まゆが手を差し出す。
「早くお薬飲んで」
病人のベッドに上ってはいけないと祖母にいい含められているのか、いつもなら飛び乗ってくる小さな体が幾分遠慮がちににじり寄ってくる。
空になったコップを渡すと、まゆはご丁寧にもそれを再びトレーに乗せようとしていた。
「落さないでね」
唇を引き結び、真剣な眼差しでトレーを見つめる様子を見ていた木綿子は、その表情が仕事部屋で学術書に見入る剛のそれにあまりにも似ているのに気付いた。
いつか3人で遊びに行った水族館で言われた言葉が脳裏を過ぎる。
『あの子はパパそっくりだねぇ、親子って一目で分かるよ』

似ていて当たり前だ。親子…かもしれないんだから。

剛とまゆ。
二人が会った時から不思議なくらい波長が合ったのは、血の繋がりのなせる業だったのだろうか。
今まで気付かなかった自分の迂闊さが悔やまれる。
でも、一体だれが、目の前にいる自分の恋人が、姉の恋人だったかもしれない男性だと、姪の父親かもしれないなどと考えるだろうか。
偶然にしてはあまりにも現実離れしている。
多分、剛の側からしてもこんな話は俄かには信じられないことだろう。

麻実の話によれば、彼はまゆの存在さえ知らないはずだ。今ごろになって「この子はあなたの子供です」と告白されたら、剛は何と答えるだろうか。
疑うだろうか?怒るだろうか?それとも否定するだろうか。
言う方も言われる方も、今までの順調過ぎるほどの過程があった分ショックは大きいだろう。
今後に何だかのわだかまりを残すだろうことは想像に難くない。
しかし、だからと言ってこのまま知らないふりをし続けていくことは彼女の良心が許さなかった。

それに、もし剛がまゆの父親であることがはっきりとしたら、まゆの戸籍の、今は空欄になっている父親の名を記すことができるかもしれないのだ。
昔に比べてDNA鑑定等で親子の関係を立証することは容易になっている。これから先、まゆの将来のためにも父親が誰かをはっきりと確定させておきたいというのは偽りの無い気持ちだ。

だが、このことを家族に、何よりもまゆにどう説明すればよいのか。
まゆの大好きな「おにいちゃん」が実は顔も知らない「おとうさん」だったんだよ、なんて自分の口からは絶対に言えない。

あまりにも残酷な事実だった。あれほど恨んで憎んだ麻実の恋人、まゆの父親が、自分が初めて愛した人…だったなんて。

麻実、私、どうすればいいの?

木綿子は今、出口のない迷路の中に一人佇んでいた。




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