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I wish... 2


「すみません…すみませーん、急患なんですが…」
誰もいない受付で中に向かって、何度か呼びかける。

『何で誰も出てきてくれないの?』
木綿子は焦りながら、腕にかかえた子供の体を抱きなおした。
もうかれこれ30分近く、不自然な格好で子供を抱え続けている腕は痺れて、肩が痛み始めている。
確か園長先生は、連絡を入れたと言っていたのに…。
と、突然受付横のドアが開き、中から大柄な若い男性が出てきた。
黒いTシャツにジーンズ姿のその人は、不機嫌そうな顔で木綿子を一瞥すると、つかつかと歩み寄ってきた。
「もっと大きな声が出せないのか?そんなんじゃ中まで聞こえないぞ」
彼はそう言うなり唖然としている彼女の腕からぐったりした子供を抱き取り、その様子を見て眉根を寄せた。
「すぐに中へ入って」

案内されたところは思っていたような診察室ではなく、ベッドと機材がならぶ処置室のような所だった。そこには机もなければ椅子もない。
「あの…先生の診察は…?」
遠慮がちに問いかける木綿子にちらりと不機嫌な視線を送ると、彼はぶっきらぼうに答えた。
「この状態では座らせる方がよっぽど体にきつい。すぐに止血してレントゲンを撮るから余計な心配しなくてもいい。診察は処置をしながら私がする」

木綿子は唖然とした。
この男性が医院長先生?
園長の話で、お医者さんはもっと年配だと思っていた。それも『温厚』な。
急に目の前に現れた、擦り切れたジーンズにTシャツ姿の無愛想な若い男性がそうだなんて…。

彼は健太をベッドに寝かせると、入って来たドアとは別の扉から出て行った。
そしてすぐに白衣を肩から羽織り、聴診器を首から下げて現れた。
この時の彼の機嫌は一見してそうと分かるほど、すこぶる悪いようだった。
『どうしてこんなに愛想が悪いの?』
一体何がそんなに気に入らないのか。木綿子には思い当たることがなかった。
彼女の戸惑いの眼差しに気づいたのか、医師が一瞬こちらを見る。
しかし彼はその困惑などお構い無しに大げさな溜息をつくと、まず壁付けのインターフォンに向かって一言二言しゃべり、それから木綿子を無視したまま表情も変えずに処置台に向かった。

その姿は、何かにすごく怒っているような感じだった。
自分がその原因を作ったとは思えないし、思いたくもないが、その怒りは明らかに彼女に向けられている。
ただ単に機嫌が悪いのかしら?乱暴に手当てされなければいいけれど。
初めての病院に、ただでさえ健太は硬くなっているように見える。
これ以上子供に無用な緊張を強いることはしたくない。
木綿子は訳が判らず首をひねりつつも、医師の動きを遮らないよう気にしながらそっと背後から近づき、屈んで処置を始めた彼の肩越しに健太の様子を覗き込んだ。

予想に反して彼は慣れた所作で手際よく患部をきれいにし、次の工程に備えて処置を続けている。
次々に繰り出される処置用の器具に怯える健太の緊張を解すように、時折おどけたような声色で話しかかけるその姿は、さっきまでの無愛想な態度とは見まがうほど優しいものだった。
健太も、もう怯えてはいないようだ。
木綿子は内心ほっと胸をなでおろした。

「下がっていてくれないか?」
「えっ?」
突然ぽんと投げつけられた言葉に驚き、その場に固まる。
「だから、そこにぼんやり立っていられると、気が散って迷惑なんだ。これ以上邪魔をするんなら、ここから出て待合でまっていてくれないか?」
木綿子は呆気に取られて彼の顔をまじまじと見つめた。
何か言い返したいのに唇が張り付いたように動かない。
だが、彼の言いたいことは理解できた。確かに自分がここにいたって何の助けにもならないし、気に障って迷惑だということも。

「聞こえなかったのか?そこをどいてくれ」
呆然とそこに立ったまま動かない木綿子に、追い討ちをかける言葉が矢のように飛んでくる。
こんなに近くにいるのだから、もちろん彼の声は聞こえている。
だけどもっと、こう…何というか言い方ってものがあるでしょう?
「うっ…」
その時、なぜだか彼女は持って行き場のない怒りに激昂する代わりにぼろぼろと涙を流していた。

人前で泣いたのなんて、いつ以来だろう。
いつもだったら軽く流してしまえることが、この時に限って妙に癪にさわった。
ただでさえ今日はアクシデントの連続だったのだ。
朝の送迎バスでは連絡ミスで一人積み忘れたし、お昼のお弁当では担当の子が次々にお茶をひっくり返した。プレイルームではピアノの蓋に園児が指を挟み大騒ぎになった。そしてやれやれやっと一日が終わるという時になってこの事故だ。
ただでさえ昨日の夜はいつもの夢にうなされ眠れなかったせいで、くたくたなのに…。

「ああ、もうすぐ泣く!だから女って…」
さらにタイミングが悪いことに、つられたのか泣き止んでいた健太までがまたしくしく泣き始めてしまう。
それを見た木綿子は健太を慰めるような何か気のきいたことを言おうとしたけれど、結局何も浮かんではこなかった。
頭の中は支離滅裂で、理論的な反論の言葉さえ出てこない。
その情けなさに、ますます涙が溢れてきた。
「お、お言葉を返すようですけど、いつも泣いてばっかりなわけでは…」
「あらあらまた女の子を泣かせて。ったくもうしようがないわねぇ」
木綿子がやっと搾り出した抗議の言葉を遮るように、良く通る声が部屋に響いた。
驚いて声のした方を振り返ると、そこには園長ともう一人、同年輩の女性が並んでこちらを眺めていた。
「剛、あなたいい加減にしなさいよ」
そう言って彼をギロリと睨みつけると、その女性はこちらを向いてにっこりと微笑んだ。
「ごめんなさいね、愛想のない子で」
「はぁ…いえ、そんな」
どう反応したらよいのか分からず、木綿子はもごもごと口の中で呟いた。

女性は処置台の方に近づくと、憮然とした表情の彼を押し退けて、健太の傷の様子を観察した。
「念のため先にレントゲンを撮りましょう。剛、用意して」
有無を言わせぬ指示に、いやそうな顔をしながらも彼が廊下に姿を消す。
この妙な展開を飲み込めず、間抜けな顔をして彼の後姿を見送っていた木綿子の後ろから、再び凛とした声が響いてきた。
「撮影と処置が終わって説明をする時にはお呼びするから、それまで待合にいてくださる?」
振り返るとその女性…多分女医さんだと思われる…が健太を抱き上げていた。
子供の扱いに慣れているようで、健太も暴れることなく大人しく抱えられている。
「木綿子先生、一緒に待合でまちましょう」
園長に促され、とぼとぼと廊下を歩き、先ほど通った受付前の待合の椅子に腰をかける。
誰もいない静かな待合に座った途端、急に先ほどのことを思い出して、恥ずかしさにがっくりと項垂れた。

何であの時泣いてしまったのだろう。
弱虫でいじめられっ子だった木綿子は、幼い頃はよくいじめっ子に泣かされた。
その度に自分を庇い、慰めてくれたのは姉の麻実だった。強くて優しい姉の後ろに隠れていると、この上なく安心できた。
しかし物心ついて麻実の体が弱いことが理解できるようになってからというもの、今度は自分が姉を庇い支えなければとがんばってきたのだ。
生まれた時から同じときを過ごしてきたのに、自分だけが健康な身体を持ち、姉が持病に苦しむのを見るのは子供心に切なかった。
姉を守らなくては。
そのためには自分が強くあらねば、と常に自分に課してきた。
その時からいつも思っていた。
人前では決して泣くまい、と。
なのに、あっさりとあの男の人の挑発にのってしまった自分が恥ずかしい。


しばらくすると病院の玄関に人の気配がして、健太の母親が姿を見せた。
園長と共に出迎え、ことの経緯を説明して謝罪し終わった頃、額に包帯を巻いた健太がドアから元気よく飛び出してきた。
「ママ!」
彼の首には医師がしていたのと同じように聴診器がかけられ、その先をこちらに向けてはしゃいでいる。
「先生が僕のしんぞうのおとをきかせてくれたよ。ドクドクいってるんだ」

診察室に招き入れられた時、机に向かっていたのは年配の女性の医師の方で、経過と処置内容を、レントゲン写真を見せながら母親に説明していた。
「額の裂傷・・・切り傷ですね、は3針縫いました。10日くらいで抜糸できますから、お近くのかかりつけのお医者様でしてもらってください。しばらくすれば痕もほとんど目立たなくなるでしょう。
レントゲンで見る限り、ひどい内出血や骨折はありません。多分ブランコが額を掠った勢いにおされて顔から転んだだけだと思います。ただ、もし高熱が出たり、ひどく嘔吐したりした場合は夜中でもすぐに救急外来へ連れて行くように」

ゆったりとしながら説得力のある説明に耳を傾けながら、辺りを見回したがそこにあの男性の姿はなかった。
「ああ、あなたもちょっと手当てしておいた方が良いようね」
健太親子が園長と共に診察室を出た後、目の前の医師が木綿子の頬を触って顔を顰めた。
触られて走る痛みに思わず顔を歪める。
差し出された鏡を見て、思わず漏れそうになる呻き声を噛み殺した。
健太の怪我に気が動転して今まで気がつかなかったが、ブランコに直撃された顔は、口元から頬のあたりにかけて薄っすらと青あざを作っていた。
「若いお嬢さんの大事な顔に、傷でも作ったら大変だわ」
医師はそう言うと患部を冷やすように指示し、外用薬の簡単な処方箋を作ってくれた。

「あの、先ほどの男の方は…」
「ああ、あれはウチのドラ息子、大学病院で勤務医をやってるの。いつもはあれほどではないんだけど、外科処置と聞いて夜勤明けなのを無理やりたたき起こしちゃったから…。ごめんなさいね、あんな愛想なしで」

健太たちを見送り、戻ってきた園長と医師は世間話に花を咲かせている。
彼女たちの注意が自分から逸れたことに、内心ほっとした。
男性は自分の仕事が済んだらさっさと引き上げてしまったようだ。
無様な姿を晒してしまった後だけに、彼と顔を合わせなくてよかったと思った。
しかし心のどこかでほっとすると同時に、がっかりしている自分がいることに気付いた木綿子は、その感情に戸惑いを覚えたのだった。




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