気がつけば自分のマンションの前に立っていた。 どこをどうやって帰ってきたのかさえも思い出せない。 師走の風が足元を冷たく吹き抜け、凍え切った身体は芯まで冷えていた。 あの後、何とか自分のバッグを掴み、着の身着のままで彼のマンションを飛び出した木綿子は、コートを羽織ることさえ忘れていた。 薄いカーディガンは冷たい北風に挑むにはあまりにも非力だ。この格好で、真冬の街の中をどのくらい彷徨い歩いて来たのかは、もう自分でも覚えがなかった。 疲れた体を引きずるように重い足取りでエレベーターに乗り、何とか自分の部屋まで辿り着くと、木綿子は玄関のドアに凭れ、冷たいコンクリートの上に崩れるように座り込んだ。 寒さに震えが止まらない。 独りになった途端に、今まで人の目を気にして張りつめていた気持ちが緩んだのか、どっと涙が溢れてきた。 悲しいのか、辛いのか、はたまた行き場のない怒りのためか、自分でもよく分からない感情の波に押し流され、木綿子はしばらく立ち上がることさえできずに悄然とその場で涙を流し続けていた。 どこかで耳障りな音がする。 ベッドから起き上がり部屋を見回した彼女は、しばらくそれが電話の音だと気付けなかった。 玄関でひとしきり泣いた後、浮腫んだ足に食い込んだブーツを無理やりに引き剥がすと、転がるようにして部屋に上りこんだ。 何時間も歩き続け、その上涙が涸れるくらい泣いて力を使い果たしたのか、這うようにしてベッドに辿り着き、布団に潜り込むとそのまま眠ってしまったようだった。 無理に起き上がった体が鉛のように重い。 日頃あまり泣くという行為をすることがないため分からなかったが、どうやらその作業は思いのほか体力と気力を消耗する重労働のようだ、とぼんやりとした意識の中で思った。 「あっ、で、電話!」 慌てて側に投げ捨ててあったバッグから携帯を取り出したが、よく聴いてみると音がしているのは家電話の方だった。 第一に、着信のメロディーが違う。 そういえば携帯の電源、切ったんだっけ…。 ベッドに入る直前、木綿子は最後の気力を振り絞って剛の携帯に電話をかけた。 もちろん彼がまだ仕事中で電話に出られないことを見越してのことだ。 ボイスメールに「急用ができたから帰る」と伝言を残しそのまま電源を切った。万が一、剛がかけなおしてきた時に、彼の声を聞いた自分が平静でいられる自信がなかったからだ。 しばらくすると電話は自動的に留守番電話に切り替わり、それと同時に呼び出音も切れた。が、一度切れた電話はまたすぐにかかってきた。 出なくても分かる。きっと剛だ。 自分の留守中に勝手に帰ってしまった彼女を気遣って、家の方に電話をかけてきたに違いなかった。 木綿子は身動きもできず、鳴り続ける電話をただぼんやりと見ていた。 二度目の留守電のアナウンスが流れると、続いて彼が伝言を入れているのが聞こえてきた。 「何かあったのかと心配している。携帯がつながらないしこっちにも出ないから。家電でも携帯でもいいから一度連絡をいれてくれ。今日はもうずっと家にいるから…待っている」 電話が切れ、部屋が急に無音になったが、木綿子の頭の中では今しがた彼が残した伝言が壊れたテープのように何度も繰り返されていた。 「もう、いやだ…」 彼女はそう呟くと、頭から布団を被り、体を丸めて目を閉じた。 何でこんなことになってしまったのだろう。 やっと廻り合った愛する人が、選りにもよって姉を捨てたかもしれない男性で、姪の父親かもしれないなんて…。 もっとひどいことに、それが分かったからといって、今更ああそうですかと簡単に彼に対する気持ちを切り捨てることなんてできない。 自分はそんなに割り切りの良い、世慣れた女ではないのだ。 かといってこれから先、ずっと何事もなかったかのように平気な顔で彼と向き合うこともできそうにない。 私は一体どうすれば良いの…? 何かを考えようとするだけで猛烈に頭が痛くなってくる。 今の自分には冷静に物事を順序だてて考える力は残っていない。ただ現実から目を背け、静かに傷ついた心を慰める時間が必要なのだと自らに言い聞かせた。 例え一時的な現実逃避にしかならなくとも、今の彼女にはそれが必要だったのだ。 眠ろう。 まるでそれが残された唯一の解決策であるかのように、木綿子はきつく目を閉じた。 今は何も考えたくない。眠ろう…。 翌日目が覚めると、頭痛に加えて妙に熱っぽく体がだるかった。その上、体中の関節が動くたびに軋むように痛んだ。 どうやら昨日無茶をしたせいで風邪をひいてしまったらしい。 熱に浮かされ思うように使えない指でサイドテーブルの上を探り、ようやく取り出した体温計は今や38度を超える勢いで上昇している。 「仕事、休むって連絡しなきゃ」 体調不良で休みたいと幼稚園に電話を入れた後、よろめきながらキッチンに行き、買い置きしてあったスポーツドリンクを枕元に並べて再びベッドに横になった。 こういう時に独り暮らしは辛い。何かをしてほしいと思っても、頼る人がいないのだから。 そのまま暫くうとうとと眠ったが、喉の渇きで何度も目が覚めた。 寝る前に額に貼り付けた冷却シートは、熱が高すぎるのか、すぐに乾いてかりかりになっていた。 眠ったはずなのに体調は良くなるどころか悪化する一方のようで、悪寒が走り、全身ががたがたと震えて止まらない。 とにかく心細かった。 いままでだってずっと一人で暮らしてきたけれど、こんなふうに思ったことは一度もなかったのに。 ここ数ヶ月というもの、剛と一緒にいることにすっかり馴染んでしまった自分の心が弱くなったせいだろうか。 彼はいつだって必要なときは手を差し伸べてくれた。それが当然のように、側にあることに慣れてしまった彼女には、頼れるものがないということが殊更に心細く感じられた。 きっと電話さえすれば、彼はすぐにでも駆けつけてくれるに違いない。 だが今の木綿子にそれをする勇気などあるはずもない。 こんな気持ちのまま彼の顔を見て、平静を保てるとは到底思えなかった。 しばらくは体を丸めたり伸ばしたりして楽な姿勢を探しながら何とか我慢していたが、病状はどんどん悪くなっていくように思えた。 気持ちもさらに追い詰められていく。 朦朧とした意識の中で、ついに木綿子は携帯を手にすると電源を入れた。 ボタンを見ようとするが熱で潤んだ目は翳み、指が震えてうまく番号が押せない。すでにどこを操作すれば短縮に入った番号にコールできるかなどということを思い出す余裕さえなくなっていた。 やっと聞こえた呼び出し音は3回目でつながった。 「はい、市瀬でございます」 母の声だ。それを聞いた途端、急に安堵感が身体を満たし、喉の奥から嗚咽が漏れた。 「お母さん…私…」 しゃくりあげながらやっとそれだけ言った。 「木綿子?木綿子なの?一体どうしたの?」 「お願い…すぐに来て。動けないの」 「動けないって、あなた…」 「お願い…お母さん、来て…」 かたかたと歯が鳴りうまく喋れない。 それでもすぐに行くと言ってくれた母の言葉に安堵したのか、木綿子は携帯を握り締めたまま気を失うように浅い眠りの中に引き込まれていった。 HOME |