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I wish... 16


目覚めた時、あたりはまだ薄闇が漂う夜明け前だった。
少し寒いな…。
掛布団が胸の辺りで丸まって肩がむき出しになっている。
はっと気付き、慌てて自分の体に手をやったが、あるはずの布の感触がどこにもない。そういえば彼が果てた後、緊張と疲労でそのまま眠りに引き込まれ、何も身につけた覚えがなかった。おまけに剥き出しの腰のあたりに剛の片腕が置かれ、二人の体はぴったりと寄り添っている。

いやだ、私ったら…。
一人暮らしで誰の目も気にしなくて良いとはいえ、裸のまま眠ったことなどなかった。しかも下着さえ着けていないなんて。
急に心許なくなった木綿子は、彼が眠っているうちに起き出そうと体を捩ったが、腹部に感じた思いがけない痛みに布団の端でちぢこまった。
「まだ早いよ」
後ろから伸びた腕が布団から出ようとした彼女の腰を引き戻し、気がつけば背中から彼の腕の中にすっぽりと包まれていた。
慌てて体を離そうとじたばたするが、がっちりと両腕で抱え込まれた体はびくとも動かない。
「もうちょっとこうしてろよ。この方が温かいし」
剛はそう言うと、もがく彼女の項に後ろから顔を埋めた。
確かに肌を通して伝わる彼の体温が心地よい。
だが、同時に太腿の裏にあたる微妙な感覚に気付き、息を詰めた。
「あの…」
気まずそうにもぞもぞと体をずらす木綿子の耳元で、剛が笑って答える。
「心配しなくていい。無理はさせないから。」
「でも…」
木綿子は言いあぐねた。
避けようと体をくねらせる度に彼の猛りは固さを増しているように感じる。あんなところを手で押さえるわけにもいかない。躊躇している間により強くなったお尻を突く感触に半ば怯えた。
「あ、あの、ちょっとお手洗いに…」
起き上がろうと力を入れただけで下半身やお腹の辺りに鈍い痛みが走る。
それでも何とか彼の腕から逃れたのは、言葉通りの切迫した生理現象に窮したからではない。
二人の間にこもる熱に浮かされ、反応してしまう自分の体と、彼の猛りを真正面から見据えるのが耐えられないほど恥ずかしいからだった。
木綿子は畳に跪き背を向け、胸元を隠しながら、枕元に丸まった浴衣を羽織るとそっと寝床を後にした。
その後ろで、布団に寝転んだまま熱い眼差しで彼女の肌を見つめる剛の視線を感じながら。


木綿子はそのまま布団には戻らず、先に温泉に浸かることにした。
昨夜、露天風呂の湯から上がる時に少し迷ったが一度栓を抜き再度閉めておいた。
果たして落ち葉除けの簾を巻き取ると、綺麗な湯が満杯に張っていた。
かけ湯をし、タオルを手に湯船に浸かる。
昨夜、彼に愛されたあちこちの場所が熱めの湯でひりひりと滲みた。
体の節々が痛く、腹や脚の間も動くたびに慣れない痛みがある。それでも何だか幸せな気分だった。
露天風呂の中で足を伸ばし、手で肩や首筋を撫でる。
ほっと一息つきながらも、その顔には自然と笑みが零れていた。

「いい眺めだな」
声のした方へ目を遣ると、いつの間にか出てきた来た剛が洗い場のところでこちらを見ていた。
待ちきれなかったのか、彼も腰にタオルを一枚巻いただけで、湯をかけている。
「お、遅くなってごめんなさい。もう上るからゆっくり入って」
体をタオルで隠し、慌てて湯から上ろうとする彼女を近づいてきた剛が押し戻した。
「これだけ広いんだから、一緒に入ろう」

縁の岩にもたれた剛に、後ろから抱えられるようにして湯に浸かる。
最初は緊張していたが、そのうち湯に温められ、緩んだ体を彼の胸に預けて遠くの眺めを楽しむ余裕もできた。
昨夜一人で入った時には暗くて分からなかった山並みが、朝日照らされて綺麗に見える。

「近いうちに、一度ご両親に挨拶にうかがってもいいか?」
むき出しになった木綿子の肩に湯をかけながら、項を撫で下ろす指の感触に思わずぴくりと震える。
「ええ…。でも父の反応が心配だわ」
彼女はそう呟くと、悪戯を続ける彼の腕を捕まえて頬を押し付けた。
「父は姉の…麻実のことを未だに引きずっているの。もちろん、そんなことは一切言葉にはしないけど。私のこととなると過保護とまではいかないまでも、すごく神経質になる。きっとあなたのことも根掘り葉掘り聞いてくるわよ。それでも平気?」
「別段何を聞かれても困ることはないけど」
剛はそう言ったきり何かを考え込むように黙りこみ、微妙な沈黙が二人の間に流れた。

「なぁ、ちょっと聞いてもいいか?」
強引に体を回され、向き合うように座らされる。体の動きに波立った湯が湯船の端に当たり、大きくのり零れた。
「前から気にはなっていたんだが、麻実さんのことって一体…それってまゆちゃんの父親のことにも関係があるのか?」
辛そうな表情で目を逸らし、口ごもる木綿子に剛が畳み掛ける。
「何があったのか教えてくれ。それでなければ君の憂いに答えられない。どうして今まで異性と付き合うことに消極的だったのか、それは麻実さんのことと関係があるのか?」


今まで誰にも、親にさえも話したことはなかった。
亡くなる数日前、何かを覚悟したかのように姉が木綿子にだけ打ち明けてくれたことがあった。
まゆの父親のことだ。
彼は麻実よりもかなり年上で、知り合ったときすでに社会人だった。
そしてほんの数ヶ月付き合っただけで自分の夢のために麻実を日本に残して、単身外国へと旅立ち、それきり音信が途絶えたのだという。
まゆのことが分かった時に、何度か彼の実家と連絡をとろうとしたのだが、門前払いをされたと聞いた。
いろいろと立て込んだ事情があったから仕方がなかったと麻実は言っていたが、木綿子には、姉はその男に騙されたのだとしか思えなかった。
たとえ麻実がどんなに彼の行いを庇い、良いように言ったとしても、彼が麻実のことを捨て去り、その結果としてまゆまでを置き去りにしたことに変わりはない。
こんなことをまゆに話すことはできない。
たとえ将来まゆが何か父親の手掛かりを知りたがったとしても、彼には娘の存在さえ知らされていないなどという酷い事実を、どんな顔をして伝えればよいのだろうか。

あまりにも身近に起きたことに受けたショックは大きく、木綿子の心に男性に対する猜疑心と失望が根付いた。
もともと男性に対して積極的な方ではなかった木綿子だが、それ以来、以前にも増して自分にモーションをかけてくる異性に対して臆病なまでに神経質に、慎重に振舞うようにもなった。
だからこそ、この年齢になるまで男性に心も身体も許したことがなかったのだ。
だが剛はそんな木綿子の心にいつの間にか入り込み、彼女の気持ちを掴んでしまった。

彼は信頼するに値する人だ。
麻実を捨てた男のように恥知らずではない。
木綿子はそう信じたかった。

ぽつぽつと語り始めた木綿子を背中から抱いたまま、剛は何も言わず彼女の言葉を聞いていた。
ずっと心につかえていた蟠りを時に怒り、そして涙ながらに吐き出し続ける彼女をただ黙って見守っていた。
ひとしきり語り終えた木綿子は両手で湯をすくうと、少し乱暴にじゃぶじゃぶと顔を洗い、涙の痕を消した。
そして肩越しに剛の方に振り返り、はにかんだように小さく微笑んだ。
泣きすぎた目は腫れ、鼻や頬はみっともないほど赤くなっているが、それでも胸のつかえがとれた今の彼女の笑顔は晴れやかだった。
そんな木綿子を見て剛は自分に誓った。
決して彼女を傷つけたりしない。どんな時も彼女を庇い、守り抜くのは自分だ。
愛しているから。
誰よりも彼女を愛しているから。




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