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I wish... 14


それから数ヶ月は夢のような日々だった。
互いの家を行き来し、その時間がないときには夜遅くまで電話で話し込んだ。
世の恋人並みにデートを繰り返し、時にはまゆを連れ出して一緒に楽しんだこともあった。
最初の頃、そういった経験がほとんどないことを躊躇いがちに告げた時、剛は驚きつつもそれを喜ばしく思ったようだった。人ごみで手をつなぐことにさえ恥じらいを見せる彼女に、剛は「中学生のレベルから始めた方が良さそうだな」と笑った。

彼は決して関係の進展を急がせるようなことはしなかったが、時折仄めかす言葉や態度に自制しきれない欲望を感じることがあった。
彼女とて経験はなくとも知識だけは十二分にある。
年頃の女の子は好奇心だけは一杯で、耳年増になっていくのだから。
学生時代、友人たちが最後の一線を越えるたびに、出番のない知識だけがどんどん増えていった。
自分には縁のないもの、と決め込んで記憶の奥底に押し込んでいたものが一気に現実的になってきた今、それを避けて通ろうとは思わない。
しかし悲しいかな、木綿子にはその決意と意思をどのようにして彼に伝えれば良いのかが分からなかったのだ。


11月も半ばが過ぎた頃、二人の関係にひとつの転機が訪れた。
剛に旅行に誘われたのだ。
1泊2日の日程で、信州の有名な温泉旅館の離れを押さえてあるのだという。
元は彼の両親が自分たちのために計画したのだが、父親の方にちょうど学会の予定が入り行けなくなった。キャンセルするくらいならと、母親に譲ってもらったのだと聞いた。
木綿子は迷った末に旅行に行くことに同意した。
彼が今までずっと自分を抑えてきたのを痛いほど感じていた。
付き合い始めて3ヶ月、いまだに剛はキス以上のことは求めてこなかった。それが男女のことに不慣れな彼女を労る気持ちからだと気付かない木綿子ではない。その彼がこうして行動を起こしたのだ。
その思いに応える時期がきているのかもしれない。
自分に彼を愛する気持ちがあるのならば。

金曜日の朝、旅行のために有給休暇をとった木綿子は、荷物を詰めた小さなカバンを手にマンションのエントランスで剛を待っていた。
そわそわと落ち着かず、いつもの癖で胸元を触ったが、今日はそこに慣れた硬い感触がないことに気付き、はっとする。
いつもは肌身離さず持ち歩いているリングだったが、温泉によっては金属が変色してしまうことがある。入浴するときだけ外す手もあるのだが、もしうっかり置き忘れて麻実の形見をなくしてしまっては大変なことになる。そう思った木綿子はリングを架けている鎖ごと、部屋のドレッサーの引き出しにしまいこんできたのだった。

ちょうどその時、玄関前に車が停まり剛が姿を現した。
「待ったか?」
「……ううん」
彼を見た途端、彼女の体がわずかに強張った。
いつもならこんな反応はしない。だが今日これから旅先で起こるであろう出来事は彼女にとっては未知の領域なのだ。戸惑いとともに怯えもある。
剛は言葉にこそしないものの、分かっているよ、とでも言いたげな表情で彼女を見ると、その手からカバンを取り、後ろの座席に置いた。
「行こうか?」
木綿子は頷くと伏目がちに助手席のドアを開け、車の中へと滑りこんだ。
「本当にいいんだな?」
運転席に乗り込んだ剛が、バイザーに挟んだサングラスを取り出しながら念を押すように話しかける。
彼女は小さく頷くことしか出来なかった。
声にすれば「やっぱり止める」と口にしてしまいそうだった。


高速を小一時間走ったが、まだ車内にはぎこちない雰囲気が流れ、会話は途絶えがちだった。
何か喋らなくてはと、思いついたことをのべつ幕なしに話しかけたが、二人の会話はなかなか続かない。
ふと運転席の剛を見ると、彼の表情もいつもより硬いように見えた。
彼も緊張しているのだ。
そう気付いた途端、木綿子は急に笑いがこみ上げてきた。
何も決死の覚悟で悲壮な戦いに挑むわけでもないのに、二人ともどうしてこんなに切羽詰った気持ちでいるのだろう。
今日は旅行、それもなかなか予約が取れないことで有名な高級旅館に泊まりに行くのだ。もっと楽しまないと勿体ないではないか。
そのとき、何かが吹っ切れたような気がした。
構えて怯えて過ごすのも一日、楽しんで大らかに過ごすのも一日。
だったら彼と二人、後者の方を選びたい。

「次のSAでどこか観光地のパンフレットをもらいましょう。せっかくここまできたのだからどこか有名な所も見たいし。お土産も買わなくっちゃ、ね?」
「了解」
急に硬さが取れた彼女の言葉に、彼はほっとしたように呟いた。

その後途中で高速を降り、車は清里へと向かった。
清泉寮でお土産を買い、寒さに震えつつも有名なソフトクリームを食べながら、少し冬枯れた草原を歩く。
「夏だったらもっと青々とした景色が見えたのにね」
「じゃぁ次は夏に来よう。今度はまゆちゃんも連れて」
「きっと喜ぶわ。あの子、本当の意味での家族旅行ってしたことがないから…」
剛は訝しげな顔をして彼女を見つめた。
「でも父親や君のご両親がいるだろう」
まゆの本当の母親は木綿子の姉であることは彼にも伝えてある。
だが父親に関しては今まで触れたことがなかった。
「ええ…そうね」
木綿子が言ったところの『家族旅行』とは、父親、母親と親子水入らずで過ごす旅行のことだ。
確かにまゆは、赤ちゃんの時から木綿子の両親に連れられてあちこち旅行には行っている。祖父母に経済的に余裕があった分、他の子供たちよりも豪勢な旅行も経験済みだ。
しかし普通の幼児がする家族旅行とは、祖父母が付き添い、観光地を連れ歩くものではない。両親を持たないまゆにとっては、親子で河原でキャンプをしたり、山登りや魚釣りといったことは、望めど叶わないことなのだ。

せめてまゆの父親に彼女の存在を知らせることができたら。
成長していくまゆを見るたびに、木綿子の心には麻実を捨てた男に対する怒りと言い様のない切なさがこみあげてくる。
唇を噛みしめて何かに耐えるような表情を浮かべる木綿子の肩を、剛がそっと抱き寄せた。
「大丈夫、まゆちゃんはちゃんと素直に育っている。ご両親や木綿子が頑張っているんだから…」
木綿子は頷くと、何度も瞬きをして浮かんできた涙を押し戻した。
「今度来るときは、まゆも一緒ね」
肩を抱く腕に力がこもる。その力強さに引き寄せられるように木綿子は彼の胸に身体を預けたのだった。


夕方、旅館に入った二人は、奥まった離れの建物に通された。
純和風の建物は2間の和室と広い縁側、内風呂の他に庭が眺められる個別の小さな露天風呂が備え付けられている贅沢な造りになっていた。
昔ながらの宿帳を持って挨拶にきた女将はお茶を入れた後、夕食までくつろいでくださいと言葉を残し部屋を後にした。
夕食は6時半からにしてもらったので、まだ1時間以上ある。
せっかくだからと、この温泉旅館名物の大露天風呂に入りに行くことにした。
浴衣に着がえ、替えの下着を持つと、離れから本館の方へと渡り廊下を歩く。
大体の出る時間を決めて別々の入口から入ると、平日の、まだ早い時間のせいか脱衣所の籠はほとんどが空で、そこにいた客は2,3人だけだった。

湯船の外で体を洗い、かけ湯をして露天風呂に入る。
晩秋の空はすでに日が落ち、あたりは薄闇に包まれていた。
岩でできた風呂の縁にもたれかかり、湯気に煙る空を見上げる。
不思議と朝の時のような緊張感はなかったが、その分、今夜彼と共に過ごすという高揚感だけが彼女を駆り立てた。

きっと麻実も、今の自分と同じような気持ちになったことがあったに違いない。
あの時は理解できなかったことが、今ならばわかるような気がする。
姉は決して不幸なだけではなかった。
自分が愛する人と結ばれ、そしてまゆを得たのだ。
それが自らの命を削る結果になったとしても、麻実がそれを悔やみなどするはずがない。

彼女の心は決まっていた。
今夜、導かれるまま彼にすべてを委ねるのだ、と。




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