木綿子のお盆休みを使って、まゆがマンションに遊びに来た。 何度が祖父母に連れられてきたことはあるが、一週間近くも泊まるのは始めてだ。それもまゆ一人で。 というのも、父の盆休みを利用して両親を旅行に行かせたのだ。 本当なら去年、銀婚式を迎えた時に行くべきものだったのだが、まだまゆが小さかったし、木綿子も就職したばかりで仕事に手一杯でそんな余裕がなかった。 今年は何とか休みの間まゆを預かれる気持ちの余裕もできたことから、両親に旅行を強く勧めたのだ。 「じゃぁ、まゆをお願いね。まゆ、お姉ちゃんのいうことをちゃんと聞いていい子にしているのよ」 朝、空港に行く前に木綿子のところに立ち寄ったあと、父と母はまゆを気にしながらも仲良く旅立っていった。 まゆは一人でお泊りという初めての経験に興奮した様子だったが、機嫌よく両親に別れの手を振り、思っていた以上にあっさりと二人を見送っていた。 その日はあいにくの雨で、外に出ることもできなかったので、アニメのビデオを見たり、ぬりえやお絵かきをして時間をつぶしたのだった。 夕方遅くになって雨が上り、まゆと二人で近所のスーパーへ買い物に出かけようとした時、彼女の携帯が鳴った。着信表示を見ると剛からの電話だった。 「これから一緒に、飯でも食べに行かないか?」 しばらくぶりの誘いに一瞬気持ちが揺れた。今日はいつもと違い、何も予定が入っていない。 だが、先に靴を履き、玄関先で待っているまゆのことを考えると、やはり無理のようだった。 「ごめんなさい、今日から妹が…まゆが泊まりにきているの。残して出かけるのは無理だわ」 「一緒に連れてきたら?子どもが一緒でも大丈夫な店にすればいい」 電話の向こうで彼はよどみなくそう答えた。 彼は、まゆがまだ幼稚園に通うような年齢であることを知らないのだ。 「でも途中で飽きちゃうかもしれないし…」 「大丈夫だよ。じゃぁ7時に駅前のロータリーで待ってるから」 剛は強引にそう告げると、一方的に通話を切った。 「もうっ、相変わらずマイペースなんだから!」 時計を見ると7時まであと1時間もない。 「まゆ、今日は私のお友達がお夕飯を食べに連れて行ってくれるんだって。行く?」 「行く〜!」 「じゃぁすぐに着替えなきゃ。まゆも自分でお着替えできるかな?」 母が着替えを詰めて来たカバンから洗濯したてのTシャツとデニムのスカートを取り出し渡すと、まゆはそれを持ってはねるような足取りでリビングへと消えた。 まゆもいることだし、シャワーなんて浴びてる暇はないわね。 この気温だ。どうせ駅に出るまでにひと汗かいてしまうだろうから、この際それは諦めた方がいいだろう。 まゆの着替えの進み具合を気にしつつ時計を睨みながら、木綿子も急いで着替えて、軽く化粧を施した。 「お待たせ」 木綿子たちが駅に着くと、剛はすでに車を停めて待っていた。 そして彼女と一緒に近づいてくる妹を見て、さすがに驚いたような表情を浮かべた。 「妹のまゆです。まゆ、ご挨拶して」 「こんにちは」 ぺこりと首を傾げる姿に彼の頬がわずかに緩んだ。そういえば健太君のときもこんな感じだったっけ。 「まゆちゃんは後ろだな。さあ乗って」 彼は後部座席のドアを開けてまゆを乗せると、木綿子には助手席に乗るよう促した。 慣れない車で騒いだりしないかと心配したが、なぜかまゆは神妙な顔つきで後ろの座席に行儀良く座っている。「お友達」が男の人だったから緊張しているのだろう。 小さい子供がいることだし、どこかファミレスでもと思っていたが、着いたお店はちょっと変わった所だった。 店内に入ると真ん中にドーナッツ型の大きな生簀があり、色々な魚が回遊するように泳いでいる。注文を受けるとそこから網ですくった魚を板前さんが料理してくれるらしい。 まゆは興奮した様子で、目の前の水槽を泳ぐ魚を見て歓声をあげていた。 「適当に注文してもいい?」 品書きを見ていた彼が何品かを店員に伝えている。 料理が出てきても水槽に夢中でなかなか箸が進まないまゆを軽く嗜めると、しぶしぶながら木綿子の隣に腰を落ち着けた。 「魚好きかい?」彼が話しかける。 「うん、大好き」満面の笑みでまゆが答える。 「でも食べる方ではなく見る方が、でしょう?」 食事に集中できない妹を軽く睨みながら、彼女の取り皿にほぐした焼き魚をのせてやる。 「食べる方も好きだもん」 最近ようやく使いこなせるようになったとはいえ、まだまだ取りこぼす方が多いまゆの箸使いを気にしながら、木綿子も食事を口に運んだ。 時々、生簀から目が離せず、すぐに口がお留守になる妹の口の中にご飯やおかずを押し込んでは小言を言う木綿子を、彼は笑いながら見ている。 「まるで親鳥だな」 「こうでもしないと、お茶碗一杯のご飯を食べるのに一晩中かかっちゃうわ」 最後に大人二人は渋いお茶をすすり、みんなで満腹感を堪能した。 まゆはまだ見足りないようで、遂には水槽に手のひらと額をくっつけて中を泳ぐ魚を目で追っている。 そんな姿を見ていた剛が不意にまゆに向かって尋ねた。 「そんなに魚が見たいなら、もっと大きな水槽があるところに行こうか?」 「えっ?」 「行くっ」 木綿子の驚きの声とまゆの弾んだ声が重なった。 「今日から仕事は盆休みだろう?明日、俺も休みだから水族館に行かないか?」 これから数日、何をして妹と過ごそうかと考えていた木綿子は、その申し出をありがたく思う反面訝しんだ。 以前聞いた時、多忙でなかなか思うように休めないとこぼしていたのに、せっかく取れた休日を自分たちのために使ってしまって大丈夫なのだろうか。 彼女も独身の一人暮らしだから分かるのだが、休日は日頃できない洗濯や掃除、買い物といった家事や雑用をこなすと案外一日がかりになってしまうものなのだ。 男性の一人暮らしも、多分自分のそれと似たり寄ったりだろう。 「でも一日つぶれてしまうから。あなたのせっかくのお休みが台無しにならないかしら」 「どうせ家にいても、一日本を読んでいるか、ネットをやってるかくらいしかしないし、下手に実家に帰ればうまいこと使われるのが関の山さ。この前みたいにね」 剛は目を輝かせているまゆを見て、満足そうに微笑んだ。 「水族館に行ったことはある?」 「ある〜。幼稚園の遠足で。えっと、えっと○○の水族館に行った〜」 「じゃぁ明日はもっと大きい△△の水族館に行こうか」 「わーい」 展開についていけず、置いてきぼりの木綿子を尻目にすっかりその気になって意気投合している剛とまゆは、帰りの車の中でも勝手に盛り上がっていた。 その楽しげな語らいの様子は、まるで休日前の親子のようだ。 大人と子供の間でも、引き合うものってあるのかしら? しかしこうしてみると二人は今日会ったばかりとは思えないくらい互いを受け入れている。それもごく自然に。 食事の時、三人でいるとまるで本当の家族のような気さえした。 木綿子はその思いを振り払うように目を閉じる。 私、なんてばかなことを考えているのかしら…。 あらぬ方へ流れる思考を元に戻そうと、木綿子は仕方なく頭の中で冷蔵庫に明日のお弁当に使えそうな具材があるかを思い出しながら、取り止め処なく続く彼らの会話をぼんやりと聞いていたのだった。 HOME |