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I wish... 1


またあの夢をみてしまった。
結局それから一睡もできなかった。あの夢をみた時はいつもそう。
ぽっかりと胸に穴が開いたようで、付きまとう喪失感がなかなか消えてくれない。

「ふぅ…」
園舎のプレイルームで片付けをしていた木綿子は、ちらかったおもちゃを手にしながら、深い溜息を漏らした。
無意識に指先で胸元を探る。
そこには、この世で一番身近だった人が残した小さな形見がある。
片時も身から離さずつけ続けているそれは、今では彼女の身体の一部のようになっていた。
彼女の体温を吸い、人肌に温まっているのは鎖に通した細身のリング。
その存在を確かめるようにTシャツの上からぎゅっと握ると不思議と心が落ち着いた。
「さぁ、ここを掃除して、砂場を片付けなくっちゃ…」
幼稚園の教諭の仕事は、傍目で見るよりかなり激務だ。
子供と過ごす時間の他にも、やらなくてはならないことが山のようにある。
木綿子は睡眠不足で重い体を奮い立たせて、足元のぬいぐるみをいつものように椅子の上へと並べ始めた。

この時間になるとスクールバスの送迎も終わり、残っている園児はあまりいない。
後は延長保育でお迎えの保護者を待ちながら遊んでいる子がほとんどだ。
園児で溢れかえる喧騒の時間とは打って変わり、園庭では10人ほどの子供が思い思いに遊んでいる。時折あがる子供の声と遊具が軋む音だけが、周りの木々に反響する。
今が一日で一番のどかさを感じられる時間だ。
そんな時だった。

見るとはなしに目を窓の外へと向けた木綿子は、視線の先に、大きく揺れるブランコの下に入り込んだ一人の園児の姿を捉えた。
「危ないっ!」
咄嗟に手にしていたぬいぐるいを放り出し、室内履きのまま園庭の端にあるブランコへと走り出していた。
目の前にスローモーションのような映像が映る。
ゆっくりと振り降りてきたブランコが、ゴツンという鈍い音と共に園児の横からぶつかった。その音だけがリアルに耳に響く。
そして庇う間もなく、小さな体はブランコに引きずられ、顔から地面にうつ伏せに倒れこんだ。

「健太くん?健太くん?」
まだ揺れの収まらないブランコが自分の体に勢い良くぶつかるが、それを避ける余裕すらなかった。
子供を庇いながら抱きかかえ、顔を覗き込むと、鼻柱と頬のあたりにできた大きなすり傷から血が滲んでいる。そして見る間に額から流れ出した血がその傷の上をなぞるように顔の上半分を真っ赤に染めていった。
こんなに出血していては、どのくらいの怪我なのかが分からない。早く止血しなければ…。
血を見てパニックに陥りそうな自分を叱りつけ、冷静になるよう何度も深呼吸を繰り返す。
ショックで自分の心臓がドクドク音をたてているのが分かった。

「健太くん?」
痛いはずなのに泣いていない。
意識は…?
何度か名前を呼んでみると、ようやく健太は声がする方向に虚ろな目を動かした。
何とか意識はあるようだ。それを確認した木綿子は安堵の息をついた。
『頭を打っているかもしれない時は揺り動かしてはいけない』
断片的に応急処置の講習で習ったことを思い出しながら、慎重に健太を抱き上げた。
何が起こったのか理解できないまま助け起こされた健太は、茫然自失でぼんやりと彼女の顔を見あげている。
「痛かったねぇ。もう大丈夫だから。さあちょっときれいにしてお薬をつけようか?」
血のりで額にはりついた髪をそっと剥がし、声をかけるとようやく自分の怪我の痛みに気付いたのか、健太は抱えられた腕の中で大きな泣き声をあげた。

「木綿子先生、健太君は?」
「すぐに連れて行きますから、ここをお願いします」
そう声をかけると、後から追いついてきた同僚にその場を任せ、騒ぎを聞きつけて集まってきた他の子供たちをかき分けて、できるだけ頭を動かさないように気をつけながら小走りで園舎に戻った。
「木綿子先生、こちらへ」
駆け込んだ職員室では、園長先生が濡らしたタオルを持って彼が運びこまれるのを待っていた。
「大丈夫だから、ほらほら泣かないの」
職員室の一角にある休憩スペースで、傷に触らないよう用心しながら血に染まった顔を拭ってやると、真っ白だったタオルはすぐに真っ赤染まり、健太はしゃくり上げながら痛みを訴えた。
見るとブランコの角にぶつけたのか額の端あたりが切れ、そこから血が流れ出している。
園長はその傷を見て、瞬時に自分たちの手には余る怪我だと判断したようだった。
「病院へ連れて行きましょう。あなたは車の用意をして。それからあなたは保護者の方に連絡をとって」
次々に飛ばされる園長の指示で、周囲に集まっていた職員たちが一斉に動き出す。
担任の教諭が健太を抱き取ろうとしたが、彼は不安げな眼差しで木綿子を見上げると、ぎゅっとエプロンを握りしめて放そうとしない。
目に一杯涙を溜めて、縋るような目をするその心細そうな顔が、一瞬まゆの泣き顔に重なる。
幼い姪も木綿子が実家からアパートに帰ろうとすると、いつもこんな目をして「行かないで」と泣きながら駄々をこねる。
それを振り切り玄関を出る時の辛さはたまらないものがあった。
日頃は腕白で聞かん坊な健太の、そんな様子を見てしまうと、小さな縋る手を無理やり引き剥がすことなどできるわけがなかった。

「あの…先生、もしよろしかったらこのまま私が連れて行きます。その代わりに片付けの方をお願いしてもよいでしょうか」
「分かったわ、じゃぁ悪いけれどお願いするわね」
出すぎた真似をするようで遠慮がちに言ってみたが、エプロンをぎゅっと握り締め、青ざめた顔をした健太の様子を見て取ったのか、心配そうにしながらも存外にあっさりと承諾してくれた。

それを機に、他の先生たちも各自持ち場へと戻っていく。
まだ園内には少数の子供が残っていた。
子供からは一時たりとも目が離せない。
先が読めない園児の行動は、ちょっとした悪戯や悪ふざけが今日のように大きな事故につながることだってあるのだ。


車の用意ができたことを知らされた木綿子は、健太をハーフケットにくるむと再び抱き上げて通用口から外へと向かった。
肩で扉を押し開くとすぐ側に園長が運転する車が横付けされた。
ついてきた同僚に車のドアをあけてもらうと、健太の頭をドアにぶつけないように手で庇いながら背を屈めて、後部座席に乗り込んだ。

「この辺りで急患を受け付けてくれる病院って…」
しばらく車で走った頃、出血し続ける傷の具合を確かめながら話しかけると、園長はウインカーをあげ右折レーンへと車を進めた。
「この先の筋に大きな病院があるの。専門は内科だし時間外だけど医院長の奥さんと私が同級生で懇意にしているからすぐに処置をしてくれると思うわ。すごく温厚なお医者様よ。腕も確かだしね」

腕時計で時間を確かめる。今はちょうど2時過ぎ。
普通の個人病院では休み時間になっていることが多い時間帯だ。
思い出したようにぐずり出す健太をあやし、じれながら車が目的地に着くのを待っていた木綿子は、先に入口で車から降りると、園長の「車を停めたら私もすぐに行くわ。一応連絡は入れてあるから」という声を背にしながら、そのまま病院の玄関へと入っていった。




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