それから数日。 俺の悩みは日々深くなっていた。 相変わらず妻は仕事に忙しく、いつもよりも数段疲れているようだ。 自分の方も、何だかんだで遅くなる日が多く、帰宅してみると木綿子は先に休んでいるといった状況が続いたため、夫婦でゆっくり話をする時間もなかった。 夕飯はちゃんと準備してあるので温めるだけでよかったが、一人で摂る食事は何とも味気ない。 ここのところ先に寝てしまうことへの穴埋めか、俺の好物ばかり用意してくれているが、木綿子がちゃんと食事をとっているのかが気になった。 まだ悪阻とか、始まってないんだろうか? ご飯は毎晩炊いてあるし、肉も魚も野菜も普通に料理してある。 世に聞く「○○がダメ」といった兆候は、皿の上には見られない。 食事を終え、使った食器を食洗機に入れると、すでに木綿子が沸かして保温にしてある風呂に入った。 朝は同時に起き出して出勤するのだが、なかなか本題を切り出すタイミングがつかめない。 前夜ゆっくり休んだはずなのに、何となく体が辛そうな彼女の様子を見ると、朝から爆弾を落すのは可哀想な気がするのだ。 もちろんこんな状態だから、夜の生活もご無沙汰だ。 もうかれこれ2週間以上、彼女に触れてもいない。特に今は妊娠疑惑でそれどころではなく、とてもそんな気にはなれなかった。 そういえば、ここにベビーバスを入れないといけないんだな。 湯船に沈みながらぼんやりとそんなことを考える。 このマンションはファミリー向けで、それなりにスペースの余裕は確保されているが、さすがに浴室はそんなに広くない。 そう思いつくと、次から次へとしなければならないことが頭の中を占めてくる。 まずは空いている物置部屋を、子供部屋に改装する必要がある。 ベビーベッドを入れ、タンスを買い、それに合わせた小物もいるだろう。 もう少ししたら父親学級にも通うつもりだ。 木綿子が許せば出産に立会いたいので、ラマーズ法の講習とやらも受けることになるだろう。誕生の瞬間を撮るのに、新しいビデオカメラも買わないとな。 その夜、風呂の中で逆上せるまでこれからのことを考えた。 存外に楽しみな予定が目白押しなことに気付いた俺は、束の間だけ今の悩みを忘れた。 翌日は金曜日、イレギュラーな手術予定もなく、久しぶりに定時で仕事を終えた。 今日は木綿子も用事で帰宅が遅くなると連絡してきたので、家での夕飯をキャンセルして、同期で他の病院に勤務している友人に誘われるまま夜の街へと繰り出した。 「家に帰っても誰もいないから気楽だよ」 彼の奥さんは今、三人目の出産で実家に帰っている。 小さい子供たちも一緒に連れて行っているので、あとひと月くらいは帰ってはこないだろうと言うことだ。どうやらそれで束の間の独身気分を味わっているらしい。 そこから話は自然と妻の妊娠中のことになった。 「今回は一番苦労したな。何せダメダメのオンパレードだったからさ」 彼の奥さんは、三人目である今回の妊娠中の悪阻が一番酷かったという。 「とにかくご飯が炊ける匂いがだめ、生肉の血の匂いがだめ、コーヒーがだめ、みその匂いがだめ、チーズがだめ、っとこんな調子で、一時食べられるものがないくらいだった」 子供に食べさせるために、しばらく彼女の実家の母親が食事を作りに来ていたほどだ。 「ついでに生ごみの匂いがだめ、芳香剤がだめ、香水や化粧品の匂いもだめ、革の匂いも受け付けなかったよ。極めつけは、ベッドで嫁さんに『あなたの体臭もだめみたい』って言われたことだな」 友人の言葉に苦笑いを浮かべる。 悪阻に苦しむ妊婦の様子を実際に見たことはない。 あくまでも耳学問と医学書、インターン時代に回された産科での研修程度が関の山だ。 これは事によると、思っていた以上に大変なことになるかもしれない。 少し早めにお開きにして、帰宅したのは11時少し前だった。 先に寝ていると思い、音をさせないようにそっと玄関を入ったのだが、今日はまだ起きていたようで、リビングから木綿子の話声が漏れてくる。 「ええ、ありがとうございました。気分がすっきりしました。一応5日分のお薬を頂いてきたので、あとは経過を見てからになるそうです」 足音を忍ばせてリビングに近づく。どうやら電話の相手はお袋のようだ。 「慢性化したら大変なので、いろいろと気をつけるように言われました。ただでさえ体力の落ちている時だから、炎症も起きやすいからと」 話の内容から、木綿子が言っていた用事は医者に行くことだったのだと悟る。 それにしても慢性化だの、炎症だのいまひとつ良くない文言が出てくるのが気になった。 「ただいま」 リビングのドアを開けると、木綿子の驚いた顔が俺を出迎えた。 「あ、ええ、剛さんが帰ってきたので。それじゃぁまた電話しますね」 受話器に向かってそう告げると、彼女は慌てて電話を切ってしまった。 「お帰りなさい、早かったのね」 友人と飲みに行くことは伝えてあったので、帰りはもっと遅くなると思っていたらしい。 「ああ、適当なところで切り上げた。ところで今の電話お袋?」 突然のことに狼狽する彼女にそ知らぬ顔で問いかける。 「珍しいね。何か用事でもあったのか?」 「ええ、ちょっと…」 嘘がつけない彼女の視線が空をさまよった。 HOME |