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I wish... 番外編

愛妻家 Dr.石崎の憂鬱 2


俺は思わず口の中にあったお茶を噴き出した。
「うわっ」
「きったなーい」
顔を寄せていたやつらが一斉にテーブルから飛びのいた。

「お、おめでたって…赤ん坊、か?」
ゴホゴホと咽ながら上ずった声で聞き返す。
「Dr.新婚ボケですか?それともその歳で本格的なボケ?」
濡れたテーブルを迷惑そうに拭きながら、看護師が呆れた顔をする。
それに尽かさず、若い検査技師が追い討ちをかける。
「それ以外、他にどんな『おめでた』があるっていうんですか?まったく、もう」
そう言われるとそうなのだが。

「い、いや、だけどね」
ガラにもなく、どもりながら咄嗟に否定しようとした時、おぼろげな記憶が脳裏を過ぎった。
そういえば何度か、危ないと思いつつもその場の雰囲気に流されて、避妊せずにコトに及んでしまったことがあった。
後で彼女は「時期が外れているから多分大丈夫」と言ってはいたけれど。

そもそも、最後に木綿子に生理があったのはいつだ?
結婚式のあと、一緒に暮らし始めて3ヶ月あまり。
確かGW明けに一度、「急に来た」と言って夜中にコンビニまで付き合わされたことがあった。
まだ新居に運んだ荷物が全部片付いていなくて、生理用品がどこに入っているかが分からなくなってしまったらしかった。
あの時もごにょごにょ言うばかりで、なかなか何を買いたいのか言わなくて、問い詰めて最後にようやく「実は…」という感じで言い難そうに打ち明けられたのを思い出す。
夫婦なのだから、一緒に暮らす以上、互いの体調を知ることは当たり前のことだと何度も諭したが、殊、体に関することについて、彼女の恥ずかしがり方は半端ではない。
口説き落として一緒に風呂に入っても、絶対にこちらを見ようとはしないし、俺が湯上りにリビングで、バスタオル一丁を巻いて涼んでいたら、いきなり着がえのパンツを投げつけられたりもする。
ベッドでは既に見ていないところはない、というくらい互いの体を知り尽くしているのに、それ以外の場所ではどうもその理屈が通用しないようだ。
大体俺は医者だし、人の体については老若男女、いろいろな形で見慣れているので、そういう遠慮をする必要はないと言っても、妻にはそれが納得できないようだった。

『しかし不味いなぁ』
思わず心の中で呟く。
今妊娠が分かってしまうと、新婚旅行が危うくなる。
目的地まで飛行機で8時間、加えて国内線への乗り継ぎで数時間。
いくら安定期に入っていても10時間以上も連続で妊婦を飛行機に乗せてはいけないのではないか?
大体予定の8月下旬までに安定期に入るかどうかさえ定かでないところだ。
自分は別段いい。
海外で生活していたこともあるくらいだし、それなりに観光もしている。彼女と一緒ならば、新婚旅行がたとえ近場の温泉になっても構わないくらいだ。
問題は木綿子だ。
豪華贅沢を売りにした旅行パンフレットをうっとりと眺めながら、それはもう楽しみにしているのだ。
初パスポート、初海外。
赤毛のアンの故郷を訪ね、ナイアガラの滝の飛沫を浴び、国立公園を探索し、氷河の上を歩き、夜は湖畔のロマンティックな三ツ星ホテルに泊まるという、盛りだくさんな予定が組まれたハネムーンパック。
妊娠が発覚すれば、それらが全部おじゃんになる可能性が高い。

だから病院に行くのに気が進まないのだろうか。
彼女の気持ちも分からなくはないが、妊娠が事実ならすぐにでも診察を受けさせなくては。
念のために産婦人科医の心当たりを思い出してみる。
大学病院で一緒だった同僚や、大学の同級生で開業医をしている友人など、数人を思い浮かべた。

『待てよ。多分男の医者は嫌がるだろうな』
最初は俺に見られるのにも、かなりの抵抗があったくらいだ。ましてや知らない男に内診をされるのは、木綿子にとっては拷問に等しい羞恥だろう。

『いや、何よりも他の男に彼女の体を触らせるなどとは、誰が許しても俺が許せん』
事故の時など、緊急時には他人の服をひん剥いて半裸の状態で処置する自分のことは棚に上げて、妻の艶かしい下半身を触診する医者が男であることが気に入らない。
『木綿子のあそこを触っても良い男は俺だけだ!』
などと勝手に思考が暴走していくのに気付き、はっとする。
いかんいかん、そんなことより、とにかく彼女を病院に行かせるように説得することが先決じゃないか。
俺は、頭を振りながら深呼吸を繰り返す。
少しずつ平常心を取り戻すと、記憶の片隅にあった週末のことが甦ってきた。
そういえばこの前、お袋に女医のいる良い病院を紹介してもらっていたようだったな。ついに自分から受診する気になったのだろうか。
もしそうだとしたら、勝手に強引に他の医者を予約なんぞしようものなら、へそを曲げて余計に「行かない」と意固地になるのは目に見えている。
どうしたものか…。

どうやら俺は知らないうちに、空を見つめながらぶつぶつと独り言を呟いていたらしい。
「やだ、大丈夫かしら、先生」
「何かちょっとショックが大きかったみたいね」
そんな自分を遠巻きに見ている周囲のスタッフのことは、もうすでに視野にも入ってはいなかった。


それからは誰に会っても上の空で、院内の自室に戻ってからも、ついあれこれと考えを巡らせてしまう。
そして遂に、とにかくもう暫く待ってみて、それから動いた方がよさそうだという結論に達した。
「しかし、選りによってこの時期に来るか?」
一人ごちながら、大きな溜息を漏らす。
子供を授かることは嬉しいことであるはずなのに、どうも素直に喜べない。
どうせなら夫婦で共に喜びを分かち合いたいのに、木綿子のがっかりした顔を思い浮かべると、何とも割り切れないものを感じるのだ。

とにかくあと少し様子を見て、自発的に医者に行かないようならば、自分が無理やりにでも連れて行くしかないだろう。
無論、木綿子は嫌がるだろうが。
抱えた頭を掻き毟りたい心境に陥る。
「まったく損な役回りだよ」
だが、仕方がない。
こうなったら嫌われるのは覚悟の上だ。




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