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あなたの声が聞こえる 9


それから暫く後、二人の結婚式が執り行われた。
表向きには急に決まった式のため大規模な披露宴を執り行うだけの場所が押えられなかったと言ってあるが、実際小早川家の力を持ってすれば会場を急遽押さえることなど訳ないことだ。
本当は体調の優れない香流の母が出席しやすいように、静かな環境でのこぢんまりとした挙式をと、彬が配慮してくれたのだった。

華燭の典というにはあまりにも簡素な、彼の親族と香流の母、親しい友人たちだけが見守るという内輪の式になったがそれでも出席者はみな祝福してくれた。
何より彼が裏でかなり手を回してくれたお陰で、式に対して母親の実家からの干渉がなかったことが嬉しかった。
香流が縛られていた母親の医療費の問題は結婚後、妻の親を扶養するという名目で彼が肩代わりしてくれることになった。
母親の実家からそれなりの見返りが無心されたらしいことに香流も薄々感づいてはいたが、彼は何も言わずに彼女の枷を外してくれたのだった。

初めは結婚を思い留まるようにと彼女を説得していた母も、彼の気遣いを知るや病身をおして式に駆けつけてくれた。
ただ彼女自身は、おかしなことに自分が本当に幸せなのかどうか分からなかった。
相変わらず彼の本当の気落ちは分からないままだし、最近では自分の気持ちさえもよくつかめなくなっている。
周囲からはマリッジブルーだとか言われたが、本当にそうなのだろうか。自問する日々が続いた。


彬の仕事の都合上、当分先まで新婚旅行に行く予定もなかった。
式が終わった後、二人の新居となる小早川の屋敷に戻る車の中で、香流は一人緊張と闘っていた。
ここまでは他人事のように行事を淡々とこなしてきただけだったが、いよいよ彼との生活が始まる。
香流とて子供ではない。
結婚した男女がどういう形で共に生活をするのか、これからは起きることは未知の世界のことなのだ。殊、これから迎える初夜の床で行うであろうことは、経験のない彼女に否応なしに極限の緊張を強いた。

しかし、彼女の不安は呆気ないほど簡単に取り払われた。
帰り着いた家で彼女ためにと用意された部屋には、彼女のものしか運ばれておらず、彼女を案内した彼はそのままドアを出て行こうとしている。
「あの…」
不安げな表情で自分の方をうかがう彼女を一瞥すると、彼はあっさりとこう言った。
「君はこの部屋を使うといい。僕は自室で暫く仕事をする。疲れているだろうから先に休んでかまわないよ。」
彼の姿がドアの向こうに消えると同時に香流は深く安堵の息をついた。
昨夜は気が張って一睡もできなかった。
もちろん、式のことで神経が過敏になっていたのは本当だが、実は今夜のことが一番気がかりだった。
いくら戸籍上は夫になった男とはいえ、婚約期間はたったの1ヶ月、それも恋人同士などという甘いものではなく、数回の個人的な食事以外は、ビジネスの延長のような付き合いがほとんどだった。
今日までキスさえもしたことのなかった男に、身体を許すのはさすがに躊躇する。
夫婦の義務だと言われれば仕方がないが、できればもうしばらく時間が欲しい。
それに、これは香流のささやかな希望なのだが、できれば『初めて』は自分が好きだと思い相手もそう思ってくれる人と交わしたかった。彼が自分をどう思っているのかという以前に、彼に対して自分がどのくらい好意を持っているのかさえ計りかねているうちはできれば避けていたかった。


こうして始まった結婚生活は、不思議なほど穏やかで、以前と変わりないものだった。
学校には内々に承諾を得て旧姓のまま通えることになっていたし、結婚したとはいっても夫の家に同居という形をとった彼女は家事に追われるようなこともない。
学校の帰りに友人たちと寄り道して帰ることも別段咎められることがないのもありがたかった。

小早川の家には手が余るほどのお手伝いさんがいて、普通の主婦がしなくてはいけない家事はすべてしてくれる。ただ、さすがに自分のものの洗濯は頼み込んで自分でさせてもらうようにした。
確かに何もしなくてよいという生活は気楽だったが、これだけ家中に他人がいると常に誰かに見られているような気がして落ち着けない。
自分のことはすべて自分でするのが当たり前だった彼女には、何をするにも誰かの手が出てくる状況に慣れず戸惑い、辟易した。
そのせいもあって、一人過ごす時間は自然と彼女のために用意された居間と寝室がつながった私室に閉じこもることが増えていった。
誰の目も気にしないで一人になれる空間。
そこだけが人の目を気にせず、唯一本当の自分に戻れる場所になった。

そして不思議なことにいつまで経っても彬は彼女と寝所を共にしようとはしなかった。
屋敷と呼ぶに相応しい大きな家には彼の書斎や寝室が別にあった。
時間があれば一緒に食事をし、同じ部屋で寛ぐことはするのだが、常に寝るのは別々でお互いに自分の寝室を使う。
それを知る使用人たちの露骨な噂を耳にするたびに、香流は複雑な気持ちになった。
夫婦としての関係を無理強いされないことはありがたい。
多分これは、まだ妻と呼べるほど彼に馴染まない香流に対する彬の心配りでもあるのだろう。
しかし、それだけでは何か満たされない、自分を女性として認めてもらえない、そんな矛盾した悔しさが心のどこかにあった。
元々家同士の利害が優先されたことなのだから、最初から愛情の欠片も望めない結婚になるかもしれないことは十分に分かっていたはずなのに。
もやもやとした掴みどころのない感情が胸の中に渦巻き、今まで感じたことのない気持ちに焦り戸惑いを隠せなかった。
『彬さんは私のことをどう思っているのだろう』
一人でいると、以前にも増してそんな物思いに囚われることが多くなった。
きっと彼にとっては自分など、退屈で大人になりきれないお子様で、適当に相手をしておけばそれで良いというくらいにしか考えていないのかもしれない。
そう思う度に心がきゅっと痛んだ。
彼女は少しずつ、本当に少しずつではあるが、彼を心から愛し始めていた。




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