帰りの車内は緊張感に包まれていた。 彬は一言も会話を交わすことなく、ただ黙って彼女を見つめている。 しかしその時の香流には、彼の視線を感じる余裕すらなかった。 一気に流れ込んできた細切れの記憶に翻弄され、それをつなぎ合わせることに必死になっていたのだ。 自分の過ごしてきた真実の記憶。 それは今から1年半以上の歳月を遡ったところから始まった。 彼女が物心ついた時にはすでに父親はいなかった。母親は誰の力も借りずに苦労しながら一人で彼女を育て、大学にまで通わせてくれた。 小さい時から周りに母以外の親族はおらず、両親共に天涯孤独の身なのだと教えられていた。 しかし母親が病に倒れた直後、思わぬ来訪者が彼女の元を訪れた。 その男性は母の兄だと名乗った。腹違いの兄弟だと。 そして香流の母親が実はある旧家の娘で、二十年ほど前に父との交際を反対されて駆け落ち同然に結婚、実家から勘当された身であることを語った。 初めて見た母の、そして自分の親族。 しかしそんな彼女の感慨を他所に、彼は思わぬ話を持ちかけてきた。 ある条件と引き換えになら、母親の医療費を工面するというのだ。 その条件というのが、小早川家の子息との見合いだった。 母の実家には適齢の女性がなく近親者を探していたところ、ちょうどそれに行き当たったのが香流だったというわけだ。 「でも、そんな気もないのにお見合いなんて…」 「悪い話ではないと思うが。とにかくこちらの顔を立ててくれればいい。それだけで母親の薬代は稼げるんだから」 母親の医療費に苦慮していた香流はその条件を呑んだ。 どんな相手かも分からないということに不安はあったが、母親のためなら何でもするくらいの覚悟はできている。 それに先方に会うだけなら、見合いだけなら何とか乗り切れるだろう。 お金のためにサクラの役を引き受けるのに抵抗がないわけではないが、彼女の中に軽い気持ちがあったのは確かだった。 見合いの席で初めて会った時の彼、小早川彬はまさに成熟した大人の男性だった。 年齢が離れているのは承知の上だったが、それでもその落ち着いた物腰は彼女を圧倒した。 香流はただ押し黙ったままでほとんど会話もできなかった。今まで社交的な席などには出たこともない彼女は、雰囲気に呑まれ萎縮していたのだ。彼と向かい合っている間中、早くこの場から逃れたい、ただそれだけを考えていた。 とにかく今日が無事に終われば、それで役目は果たせると。 しかしその後、話は彼女の思わぬ方向へと向かった。 彼女も含めてその場にいた人間はてっきり小早川家側から断られると思い込んでいたが、彼がこの話を進めるよう言ってきたというのだ。 「まさか先方が君を気に入るとは」 伯父は意外そうにそう言うと、香流にしばらくこのまま付き合うふりをするよう要求した。もちろん破格の報酬を示してのことだ。 母の病状は思わしくなく、もっと高度な治療を受けさせたかった。そのためにはどうしてもお金がかかる。 たった一人の家族だから、母には何としても元気になってもらいたい。 その一心で彼女はこの話を了承した。 その決断が、その後の彼女の運命を大きく狂わせることになるとも知らずに。 それから幾度となく食事をしたり、デートに誘われたりした。 何度か彼の友人たちとの集まりにも同席し、いろいろな人を紹介されたこともある。しかし所詮、住む世界の違う知らない人たちに混じっていても楽しいはずもない。話が弾むどころか毎回空々しい場の雰囲気を、彼女は一人耐えなければならなかった。 彼の友人たち、特に女性たちは彼が香流をパートナーとして選んだ理由を理解できないようで、彼女に対する反応も冷ややかだった。 確かに小早川彬は人目を引く端正な顔立ちと長身でスマートないでたちの持ち主だ。レストランでもコンサートホールでも彼は常に女性の目を引きつけている。 一緒にいる彼女に注がれる嫉妬の混じった鋭い視線に、自分が周囲の女性たちの敵にでもなってしまったかのような錯覚さえ覚えた。 しかし、香流は彼の持つ威圧的な雰囲気がいやだった。 彬と一緒にいると、囲われ、押さえつけられるような息苦しさを感じずにはいられない。 だから彼といる時は、目を合わせないようにいつも俯いていて、話もできるだけしないように努めた。 そんなことが何度かあった頃、二人だけの食事に誘われた時に彼から尋ねられたことがある。 「いつも俯いてばかりで何も言わないのはどうしてなのか、教えてくれるかい?」 顔を上げた香流は少し躊躇したが、思っていたことを口にした。 「私、正直に言って自分があなたと釣り合うような人間だとは思っていません。今まで男の方とこういうお付き合いをしたこともありませんし、こんな高級なレストランに連れてきてもらったこともないんです。何かしてしまったら失礼になりそうで緊張して…。こういうところは私には居心地が悪すぎます。 黙っているのはあなたがどういう会話をしたいと思っているのか、そえさえも私には分からないからです」 そして最後にこう付け加えた。 「それに私は…多分あなたが怖いのだと思います」 「怖い?」 彼が心外だという顔をする。 「私は父親と過ごした記憶がありません。周りにそういう男の人がいませんでした。だから大人の男性に対して、どういう態度をとったら良いのか本当に分からないんです」 「心配するようなことは何もない。自分が思ったことをしたり、口に出しても僕がそれを蔑むようなことをするつもりはないから何でも言ってくれればいい。こういう所が気詰まりならもっと気楽に過ごせる方法を探せば済むことだ。それにそのうち回数をこなせば、こういう場所にも慣れて、どうってこともなくなるよ」 そう言うと、彼はふっと目を細めて笑った。 彼が笑うのを見たのはその時が初めてだった。 彼もこんなに柔らかく笑うことができるのだ。 香流の顔にも自然と笑みが浮かぶ。 その日、やっと香流は彼と少し打ち解けて会話ができたと思った。 それ以来、少しずつ二人の間に今までとは違った風が流れ始めた。 確かに周囲からお膳立てされ、半ば脅されて、お金のためにいやいやながら受けた縁談ではあったが、彬は彼女を大事にしてくれる。 彼が相手ならば、最初からそれほど悪い話ではなかったのかもしれない。 きっかけはどうあれ、互いが価値観の差を認め合うことができるようならば、それで十分意思の疎通は図れるのだ。長く付き合うことにはならないかもしれないが、彼と過ごす日々はきっと後々まで良い思いでとして残しておけるだろう。 そう気持ちを切り替えた香流は、彼の思惟を可能な限り受け入れよう努力しはじめた。 そうするうちに以前のように彼が高圧的な態度で彼女に接することはなくなり、また彼女自身も彼と一緒にいて必要以上に緊張することがなくなった。 そして、ふと気がつくと、時々自分の方をじっと見つめる彼の目を感じることが度々あった。 じっと見つめられていることに気付いても、どうしたらよいのか分からず視線を逸らしてしまう彼女を見る彼の視線は、穏やかでただ優しくて。 男性からそんなふうに見つめられたことのない香流は、つい頬を染めて俯いてしまう。 そんな彼女を見て目を細める彼の本意など彼女には分かるはずもない。 『こんなの狡いわ…』 彼の本心は未だに見えないのに、自分の気持ちはすべて彼に見透かされているような、そんな不公平な思いで一杯になる。 相手は自分よりひと回り以上も歳上の、放っておいても女性の方から近づいてくるような容貌と地位の持ち主なのだ。女性の扱いは手馴れている。 どんなに香流が大人っぽく振舞おうと虚勢を張っても、所詮お子様扱いが関の山なのだろう。 それでもいつでも見守られているという安心感は、彼女に安らぎを与えた。 困ったことがあると気付かないうちに彼がそっと手を差し伸べてくれる。そんな優しさに触れるうちに彼女の心にゆっくりと彬の存在が入り込んでいった。 断るタイミングを逸したまま話はとんとん拍子に進み、いつの間にか着々と結婚の準備が始められた。 元はといえば母の実家の事業が資金難に陥り、その融資の見返りにと始めた縁組だった。 そのため、双方が事を運ぶことを急いだのだ。 「あなたが犠牲になる必要なんてないのよ」 その時になっていきさつを聞き、実家が関与していると知った彼女の母親は、その事をひどく気に病み何度も娘の気を変えさせようとした。 しかし少しずつ彼に惹かれ、好意を寄せていた彼女の気持ちはもう引き返せないところまで来ていた。 彼を愛しているのかと訊かれれば、多分自分は「そうだ」と答える。 他の男性には感じたことのない馴染みの無い感情だが、多分これが男女の間にある愛情というものなのだと思いたかった。 ただその反面、恋愛経験のなさから彬の本意を図りかねることは常に彼女を悩ませた。 彼は私のことをどう思っているのだろう? 何度も直に問いただしたい衝動に駆られたが、怖くてそれもできなかった。 もし彼が自分との結婚を、家同士を繋ぐための単なる契約としか思っていなかったら…そう思うだけで気が滅入りそうになる。 いくら待っていても、彼は自分から本当の気持ちを言ってくれそうにない。 彼にとって、この結婚とは何なのだろう。 そして私の存在はどう映っているのだろう。 時間を追うごとに香流は自分が踏み出そうとしていることに、少しずつ疑問を感じるようになっていった。 本当にこのまま彼と結婚してもよいのだろうか、と。 HOME |