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あなたの声が聞こえる 7


「警察ですが、小早川香流さんのお宅はそちらでよろしいでしょうか?」
夜遅くにかかってきた一本の電話によって、小早川の家は大騒動になった。

いつもならとっくに帰宅しているはずの香流が、今日に限って7時を過ぎても帰って来ない。
家から連絡を受けた彬は、すぐに彼女の携帯に連絡を入れてみたが繋がらず、留守電になってしまった。
何かあったのだろうか。まさかどこかで事故にでも?
急に胸騒ぎがした彼は、出るはずだった会合をキャンセルして自宅に戻っていた。

「お嬢さんがこちらで事件に巻き込まれましてね。できましたら、どなたかご家族の方に迎えに来ていただけないかと思いまして」


連絡を受けた彬が香流を迎えに駆けつけたのは、深夜のことだった。
手足に軽い怪我をしていた彼女は病院で手当を受け、そのまま地元の警察署に保護されていた。

「お世話になりました」
頭を下げる彬を警察官が見つめた。
「いや、驚きましたよ、てっきりまだお嬢さんだと思っていたものですから。奥さんだったんですか」

簡単な手続きを済ませた彬は、休憩室の椅子にぼんやりと座っている彼女を見て大きく息安堵の息をついた。
見た感じ、大きな怪我はしていないようだ。
最初の一報を聞いたときには生きた心地がしなかった。

「実はですねぇ…あの娘さん自分の名前以外何も喋らないんですよ。調書を取ろうにも、何を聞いても答えてくれませんでねぇ」
担当の警察官が困ったように頭を掻く。
「連絡先も、申し訳ないが荷物を検めさせてもらって、やっと分かったような状態で。普通、ああいう被害に遭った女性はパニックになるとかヒステリーを起こすとか、そういう反応をするもんなんだが、あの娘はああしてずっと椅子に座ったまま動こうともしない。いやはや、どうしたものかと扱いあぐねていたところですよ」


「香流、迎えに来た。一緒に帰ろう」
彼の声に顔を上げた彼女は無表情で、その目はまるで何も映し出されていないかのようにうつろだった。

「なぜ…?どうして?」
震える唇から紡ぎだされる言葉に、彬は息を呑んで押し黙った。
その短い問いかけで、既に彼女が知ってしまったことを悟った。
ここに、父親の故郷に来ていると聞いた時から覚悟はしていた。
いつかは話さなくてはならないことだったのだ。
母親の死という悲しい事実をいつまでも隠しとおせるはずもない。むしろ今まで、彼女がそれに感づかないでいた事の方が不思議なくらいだ。

「何でお母さんの名前があそこにあるのよ?ねぇ、どうして?教えてよ」
「香流…」
「あなたは、ううん、私以外の人はみんな何もかも知っていたんでしょう?黙ってないで聞かせて。ねぇ、何で教えてくれなかったのよ?」
焦点を結ばない瞳からあふれ出した涙が頬を伝い落ちた。それを拭おうとした彼の手を、香流が払いのける。
「触らないで!」

このことで彼女の涙に責められるのは二度目だ。
一度目の時に感じた深い後悔の念に、再び囚われることになるとは。
しかし二度とも、そのまま彼女に真実を告げることはできなかった。
あのおぞましい出来事で大きな傷を負い、それを癒す必要があった彼女のことを考えると、ショックを与えることはできるだけ避けたかった。
そして一度目の時は…あの時も彼女には大事な時期だった。だから言えなかったのだ、どうしても。
しかしそれが彼女を絶望のどん底に突き落とし、結果として取り返しのつかない事態になってしまったのは想定外のことだった。
今でもその事を思うと口に苦いものが広がる。

震える肩を抱き寄せると初めは腕の中でもがき、抵抗していた彼女も次第に力が抜けたように身体を預けてくる。
「お願い、何か言って。いつものように私を納得させるような理由を」
懇願するような彼女の声が、押し付けられた彼の胸元でくぐもって聞こえた。
「話は今でなくてもいい。君は怪我をしているんだ。帰ってゆっくり休んで、それから始めても遅くはないだろう?」

恐らく彼女には、その場しのぎに聞こえたのだろう。段々大きくなる彼女の声に周囲が好奇の目を向け始めていたのを見た彬は声を潜めるように暗に彼女に促した。
香流はそんな彼の態度に顔を埋めていた胸を突き返し、刺すような目で彼を見据えてヒステリックに叫んだ。
「嘘つき!もう誰も信じられない。あなたは私に本当のことを話すつもりなんてないんでしょう?私はもう帰らない。あそこは私の家でなんかじゃない!」
「そこまでだ。香流、帰るぞ」
引きずられるようにしてその場を後にした香流は、彼に抱えられたまま迎えの車に押し込まれた。
「いやよ、帰らない。あなた達、誰も何も教えてくれないじゃない。納得できる答えを聞くまで私絶対に帰らない!」
「香流」
「いやっ、放して!」
彬は車に乗り込むと素早くスイッチを押して運転席との仕切り板を上げた。これで他の誰にも聞かれることなく話ができる。
そして暴れる彼女の腕を捕まえて座席に押しつけると、体重をかけて無理矢理に身体を押さえ込んだ。
「香流、聞くんだ」 いつものように包み込むような優しさは影を潜め、力ずくで従わせようとする彬の態度に戸惑いながらも、彼女は持てる力全てを使って彼に抗い続けた。
「いやっ、放して」
彼はますます拘束の手を強める。
「お願い、放してっ!」
圧し掛かる体の重みとその腕の感触に、鳥肌が立ち身震いする。
ゆっくりと、しかし荒々しく彼の唇が自分のそれに押し付けられた。
彼女はただ呆然とそれを受け止めた。顔を背け、拒むこともできたのに、なぜか彼女はそうしなかった。
止まったままの呼吸が戻ってきた時、思わず大きな息をした香流は、思い切り彼の香りを吸い込んでいだ。シャツに染み込んだコロンに混じって彬の男性らしい香りが彼女の鼻を擽った。
それは記憶中の、何かを呼び起こした。
前にもこんなことがあった。そうずっと以前に。
記憶を塗りこめた壁が小さくひび割れた音がした。

微かな、おぼろげな記憶。
両腕を拘束された自分が泣き叫んでいる。それは霞がかかったような白い部屋の中。
そしていやがり暴れる彼女を組み伏せている男。
抜け落ちた記憶の断片が、封印を解かれたように彼女の中に流れ込む。
香流は衝撃に耐えられなくて、彼の眼から顔を背けた。
「いや…」
力が抜けた細い体が、がくがくと震えだす。
それは意図的に与えられた、偽りの記憶が崩れ始めた瞬間だった。




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