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あなたの声が聞こえる 6


7月の終わりから大学は長い夏休みに入った。
それまではキャンパスと家の往復とはいえ、平日は毎日出かける予定があった香流だが、学校がなくなると途端に暇な時間を持て余した。
入学した年の夏休みは学費稼ぎに必死で、休みの大半をバイトに費やしたものだ。
それはそれで大変だったけれど、色々な人と知り合いになれたし、楽しいこともたくさんあった。
今では学費の支払いに苦労することはないが、旅行やバイトはおろか外で何かをするのでさえ夫に同意を求めなくてはいけないのは窮屈の感じる。ましてや、それがほとんど思い通りにならないのだから尚更だった。
ただ家にいて、時間を持て余すと余計な物思いをしてしまう。
それがいやで、香流は密かにある計画を立て始めた。

8月の半ば、地方では旧暦の盆となる。
彼女の亡くなった父親の墓所は郷里の地方都市にあった。
東京から新幹線を使って2時間、そこから霊園までは公共の交通機関を使っても片道1時間ほどで行ける。朝早めに家を出ればゆうに日帰りでき、どこに行ったかと過干渉な夫にも勘繰られずにすみそうだ。

綿密に計画を立てた香流は、ある朝それを実行に移した。

「今日、友達と出かけようと思っているのだけど、いいかしら?」
香流は朝食の席でそう切り出すと、同意を求めるように彬の方をうかがった。
「久しぶりなんだろう?行って来たらいい。ただあまり遅くならないように」
珍しくあっさりと許されたことに少し驚く。
行き先は適当に誤魔化した。近くならどこに行くか根掘り葉掘り訊かれないし、お目付け役について来られなくて済む。
彼が出かけると、手早く着替えを済ませ、夕食は済ませてくるから要らないと告げて一人駅へと向かった。
いつものように運転手が送ると申し出てくれたが、行き先を知られたくなかった彼女は丁重に断った。


数年ぶりに父の故郷に降り立った香流は、変わってしまった町並みを見ながらため息をついた。
ここに来たのは何年ぶりだろう。
この数年、母親が体調を崩していたため墓参することさえままならなかった。
時間がなかったのは確かだが、何よりもここに来る交通費さえ捻出するのが難しい経済状態だったのだ。
今はお金の心配をすることもない。
優しい夫は過保護なくらいなにくれと世話をやいてくれる。以前の生活を考えると甘やかされすぎているような気がするくらいだ。
だが、こんなに恵まれた中にいるのに時折不安でたまらなくなることがある。
急に真っ暗な場所に一人で放り出される悪夢を何度も見た。そこには母も夫も誰もおらず、気がつけば彼女は泣きながらあてもなく暗闇の中をふらふらと彷徨っているのだ。
身近に縋る人がいないということは、こんなに心細いものなのか。
夫は頼れるが心を開いて打ち解けられない。
せめて母が側にいてくれたなら…。

母は遠く離れた療養所に入っていると彬から聞いている。
そこは医療設備が充実していることでも有名な、完全看護の療養施設だった。
常々病気がちな母に十分な治療を受けさせてやれないことに心を痛めていた彼女は、それを知り安堵した。
病院にいる時から母に会いたいのをずっと我慢していた。事故に遭い、入院していたと知れば心配性の母は何としてでも彼女に会いに来ようとしただろう。
体調の悪い母に知らせて無理をさせたくなかったし、彬にもそう強く言われたからだ。
そして退院した今になってもまだ母とは直接話をしていない。
記憶が戻らない状態で母の元に行くのは躊躇われた。いずれは気付かれてしまうかもしれないが、できれば心臓の悪い母に余計な心配をかけたくなかった。


駅前で墓前に供える花を買い、そこからバスに揺られて父親の眠る地へと向かう。
墓地に着くと、いつも母がしていたように入口で桶と柄杓を借り受け、墓のある区画へと歩いた。
もう何年も手入れをしていないわりに父親の墓は綺麗に管理されていた。
「お父さん、久しぶりね」
物言わぬ石に話しかけながら、周囲に残っている小さな雑草を丁寧に抜き、水を満たした花筒に花を挿す。
最後に線香に火をつけようと墓の横側にしゃがんだ時、ふと見上げた墓碑銘を目に彼女の目が吸い寄せられた。

「うそ、そんなばかな」
まだ彫りこまれて新しいその文字は信じられない名前だった。

香代。
慌てて立ち上がり側に寄ると、墓石の横側に刻まれた文字を読む。
『妻 香代 享年四十才』
信じられない気持ちでなぞった指に、刻み痕の尖りが冷たく当たる。

「何で、何でなの?何でお母さんの名前がここにあるの?」
母の名前がこんなところにあるはずがない。間違いだ、絶対に何か間違いがあったのだ。
そう何度も自分に言い聞かせるが、体が震えて止まらなかった。

「どうかなさったのかね」
偶然通りがかった住職が、彼女の様子を見て声をかけてきた。
「この…名前のことなんですが」
「ああ、その仏さんかね」
住職は前の年にあったという葬式のことを覚えていた。
斎場ではなく今時珍しく寺での葬儀だったので印象に残っていたのだという。「参列者は多くなかったが花々に囲まれた静かな野辺送りだった」と答える声が遠く聞こえた。
「ちょっと、あんた大丈夫かね?」
呆然としている香流の真っ青な顔色に気付いた住職が彼女を覗き込んだ。
「あ、だ、大丈夫、です。ただ少し気分が…」
「よかったら寺の側の待合所で休んで行きなさい。鍵は開けておくから」


どのくらいぼんやりしていたのだろう。
誰かに声をかけられてやっと我に返る。
「そろそろ施錠しますので」
ああ、もうそんな時間かと窓の外を見ると夕闇が迫っていた。
昼間の住職に勧められて待合に来たものの、椅子に座ったまま呆然としていた。
何も考えられなかった。
「お一人で大丈夫ですか?ご家族に連絡しましょうか?」
昼間とは違う若い住職に問われて首を振る。
「大丈夫です。ただ…申し訳ありませんがタクシーを呼んでいただけますか」

墓地の入口でタクシーを待っていると不意に携帯が鳴った。
通話の表示は「彬」
思わず電源を切った。
とうに日が落ち、あたりは漆黒の闇に閉ざされている。
それは時折うなされる悪夢に出てくる風景にそっくりだった。
鬱蒼とした木々が溶け込むような漆黒の闇。
しかし今の彼女はその闇を怖いと思えなかった。
恐怖でさえ、麻痺した彼女の心を動かすことはできなかったのだ。

帰れない、もうあの家には帰りたくない。

駅前でタクシーを降りた香流は、踵を返すと駅に入ることなくそのまま夜の繁華街をさまよい始めた。
どこに行くあてがあるわけでもない。
ふらふらと賑わう夜の街を歩いているうちに、ふと一軒の店に目が留まった。
古い喫茶店。
おぼろげな記憶だが母と一度だけ入ったことがある。彼女がまだ小学生ぐらいだった頃のことだ。あの時は母もまだ若かった。列車の時間まであそこで二人、父の話に花を咲かせたっけ…。
もう遅い時間のためか店は閉まり電気も消えていた。
それでも懐かしさに彼女は店の前に立ち、足を止めた。

その時だった。
突然「どん」という強い振動を感じた直後、左の肩に痛みが走った。
後ろから近づいてきたバイクにいきなり肩から提げていたバッグをひったくられそうだと気付き、咄嗟にバッグを胸に抱かかえ抵抗した。
「誰か、誰か助けて!」香流は叫んだ。
掴まれたショルダーで数メートル引きずられた彼女はそのまま地面に叩きつけられたが、騒ぎを聞きつけた周囲が騒ぎ始めるとバイクに乗った犯人はそのまま走り去った。
一瞬の出来事だった。

「おい、ちょっと、君、大丈夫か?」
見知らぬ人に声をかけられたが声が出ず、頷くのが精一杯だ。
気がつけば道にへたり込んだ彼女の周りに小さな人垣ができていた。
誰かが呼んだのか、遠くからサイレンの音が聞こえてくる。茫然自失に陥ったまま、香流は他人事のようにその音を聞いていた。




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