退院して数週間が過ぎたある日。 それは香流が2階にある大広間と、それに続くバルコニーに立った時に突然起こった。 普段そこは厳重に施錠され、時折清掃に訪れる業者が作業をする間だけ窓や扉が開けられるが、日頃は誰も入れない「開かずの間」になっていた。 その日、フロアの修繕工事のために開けられていた扉から、香流が中に入ることができたのは偶然だった。 戦前に建てられた小早川の本宅は、大屋敷といっても過言ではないほどの広さがある。 彼女が目にしたその広間は、古きよき時代の面影を今に残していた。 「すごい、まるで映画で見た鹿鳴館みたい」 思わず見上げた漆喰の天井には、一面に絵画が施され、柱や梁、窓枠にいたるまで繊細な彫刻で飾られている。 中央は大きなホールになっていて、ダンスをするにも十分な広さがあった。隅にあるボックスは、小規模なオーケストラや生バンドが入れるスペースが確保されていて、瀟洒な白いグランドピアノさえ設えてある。 2階の西翼側ほぼ全体を占める空間と、一段高く中庭に張り出した格好の大きなバルコニーは、さながら写真などでよく見るヨーロッパの城を思わせる豪華なものだった。 香流は作業の邪魔にならないようにホールの端を横切ると、大振りなフレンチドアから外に出てみた。 庭から見上げた時には分からなかったが、間近に見るバルコニーの手すりは美しい細工が施された見事なものだった。 くすんだブロンズの優美な曲線に触れてみたくなった香流は、何かに引き寄せられるかのようにバルコニーの端に立ち、欄干に体を預けた。 昔、どんな人々がここに集ったのだろう。 豪華な衣装の紳士や貴婦人たちが、ここから見下ろせる中庭の見事な風景に見入る様子が思い描けるようだ。 ふと自分がドレスを纏い、ここに立つ姿が脳裏に浮かぶ。 ドレスは銀色がかった白。シフォンのショールを羽織って夜の闇に中にぼんやりと佇んでいる自分。 いや、そんなはずはない。香流は即座にその映像を打ち消した。 私はこんな場所に似つかわしい人間ではない。きっとこの雰囲気に影響されて、在らぬ妄想の世界に誘われたに違いない。 「危ない!」 体を返し、下に広がる庭の美しさに魅入られたかのように手すりから身を乗り出した瞬間、荒々しく肩を掴まれ、後ろに引き戻された。 ぎくりとして振り返ると、そこには彬が立っていた。 その顔色は見たこともないほど青ざめ、表情は冷たい怒りをはらんでいる。 「ここから落ちたらどうする気だ?やっと怪我が癒えたばかりなのに」 彼の感情を抑えた声色に、彼女の中の何かが反応した。 何も思い出せないが記憶が消え去ったわけではない。 怒りを湛えた瞳に見すえられ、掴みどころのない恐れに戦慄を覚える。 以前にもこんなことがあった。 ここに来た記憶さえないが、なぜか確信を持ってそう思った。 何があったの?ここで何が…? ベールの向こうにあるおぼろげな記憶が耳障りな警鐘を鳴らす。 「わ、わたし…」 混乱しながらも何かが脳裏を過ぎったような気がした彼女は、記憶の細い糸を手繰り寄せようとするが、その端を手に取るより一瞬早く再び闇へと沈んでしまった。 ずきりと鈍い頭痛がした。 自分の身体が前後に揺らぎ、床が迫ってくるのが見えた。 倒れる… そう感じた香流が無意識に側にいた彬の方に手を伸ばす。抱きとめる夫の腕に、いつもは感じない安堵感を覚えながら香流はそのまま意識を失った。 気がつい時には自分の寝室に運ばれていた。 側には誰もいなかったが、恐らく彬がここまで連れてきてくれたのだろう。 ベッドに横になっていても背中には冷たい汗が流れ、着ていた部屋着が身体に張り付いている。 昏倒する直前、一瞬見えた何かは一体なんだったのだろう。何かが掴めそうだったのに、激しい頭痛がその場面を遮った。 何が彼女の身体にこのような影響をもたらしたのか。 記憶が戻る前兆なら良いのだけれど。 後日怪我の回復状態の診察を受けたときに尋ねてみたが、医師には「事故のせいで一過性の記憶障害に陥っているので刺激に敏感になっているのだろう」と言われただけだった。 念のため専門医の紹介を受け、その後しばらくは色々な療法を試してみたものの、彼女の記憶はあいまいなままで、しかも断片的にしか戻らなかった。 新たにカウンセリングの担当となったのは、彼女の母親くらいの年齢の女性医師だった。 何度も辛抱強く彼女の話を聞き、順序も秩序も時間も関係なく細かい破片のようにしか甦ってこない記憶を繋ぐのを助けてくれた。 医師は彼女の記憶には強力なストッパーがかかっていると考えているようだった。 それは自分自身を守ろうとする自己制御のようなもので、おそらく何か思い出したくない事柄から無意識に自分を遠ざけようとしていているのだろうと診断したのだ。 「いつになれば…すべての記憶が戻るのですか?」 記憶の欠落という重い事実に怯え、焦る香流を見て、医師はいつも変わらぬ優しげな表情で繰り返しこう言った。 「それは何とも申し上げられません。数ヶ月、いや数年かかるかもしれないし、何かのショックで今日突然思い出すかもしれない。それに仮に欠損部分が戻ったとしても完全にすべてを思い出すことができるという保証はありません。 何より重要なのは、あなた自身がそれを取り戻すことを無意識レベルで拒んでいるということです。 閉じられた記憶の蓋を力ずくでこじ開けることは精神的な負担が大きく、ある意味大変危険です。無理をせず、ゆっくりとやっていきましょう」 解離性健忘 自分がこれに陥った原因となったであろう事故。 記憶のない彼女にはなぜ自分が事故にあったのか、それさえも分からない。 半年もの間、意識が戻らず昏睡状態だったことは彬から聞かされていたが、どんな事故にあいどんな状況で病院に運び込まれたのか。誰に聞いても詳しいことを教えてくれる人はいなかった。 記憶のない一年、眠り続けた半年、それを埋めてなお余りある不可解な今の状況。 それら呼び起こす強迫観念は常に彼女を脅かし、この家に来てからというもの、気が休まる時がなかった。 誰かに縋って苦しい胸のうちをすべて吐き出したい。 だが今までそれをさせてくれた唯一の人、母はここにいない。 身近な存在であるはずの夫には、なぜかそれができなかった。 彼女を取巻く雰囲気はいつも緊張していて、みんな何かを押し隠すように平静を装っている。特に彬は、常に香流の言動に対して過敏なほどに神経を尖らせているのを感じていたからだ。 一度言いかけてそのまま聞き出せなかった写真のことのように、彼は香流が過去を深く探ろうとすれば必ずそれをうやむやにしてしまう。 時期が来れば記憶は戻る。焦らない方が良いと。 彼はなぜ記憶を探ることに用心深くなっているのか。 どんなに彬がそれを止めようとしても、過去を取り戻すことは彼との関係を元に戻すためにもどうしても避けて通ることはできない。 すべてが明らかなった時、なぜ自分が無意識に彼に抗うのか、その理由もきっと明らかになるはずなのだから。 HOME |