家に馴染めないのと同じように夫、彬に対する違和感もまた、彼女を苛立たせていた。 退院してからというもの、彼は多忙な中で時間を見つけては香流にそれまでの二人の過程を聞かせてくれる。それは普通の若い女性なら一度は憧れる、シンデレラ・ストーリーだった。 偶然の二人の出会いから彼女がガチガチに固くなった初デート、結婚式の時の秘密のエピソード、先延ばしで結局行けなかった新婚旅行。 彼の口から聞かされた事故前の生活は、愛情溢れる幸せなものだった。 「偶然にも母の知人とあなたの知り合いが同じ人だった、というのが最初の出会いだったのね」 そしてすぐさま二人は恋に落ち、結婚した。 当然、香流はまだ学生ということになってしまうが、苦労して入った大学なだけに卒業までは学業を続けさせてくれると約束してくれた。 ただ生活費と学費を払うためにいくつか掛け持ちしていたアルバイトは辞めるように言われたようだ。 そんな状況で事故に遭うまでのほんの数ヶ月、彼と共にこの屋敷で夫婦として生活していたというのだ。 彼は頷くと彼女の指に光る真新しい銀色のリングに目をやった。 以前彼女がつけていたものはあの事故以来行方がわからなくなっている。いくら現場を探させてもそれらしきものは見つからなかったのだ。 しかし香流はどうしても合点がいかなかった。 確かに母は誰からも好かれる優しい人だが、裕福な知り合いがいるような話は聞いたことがない。 その上ここ数年病気がちで家に籠もっていたこともあり、彼女が知るほんの数人の知人を除けば外との交流は皆無に近かったはずだ。 その中に彼とつながるような人物、といって思い出すような人はいない。 それに、自分に対する彬の態度も疑問だった。 彼は見るからに紳士的な男性で、常に優しく気遣いながら彼女に接してくれる。 それは夫と言うよりは、まるで母の話でしか知らない父親か、持つことのなかった兄のようだった。 思えば物心ついてからというもの、いつも母を庇い助けながら世間の風と闘ってきた彼女には、彼のように包容力のある大人の男性に守られた経験がなかった。いつも強くあり続けることを自らに課していた自分が、誰かに甘えている姿など想像もできない。 彼とはひと回り以上も歳が離れている。そのせいもあるのだろうが、今まで同年代の男子学生しか見る機会がなかった彼女には、その優しさと穏やかさは成熟した大人の男性の持つ魅力に思えた。 しかし彼の態度は時として、あまりにも他人行儀でよそよそしいと感じることがある。 そしてなぜか彼を含め周囲の人たちは、彼女を腫れ物のように見ているふしがあった。 最初は体の具合を気にしてのとこか思っていたのだが、回復してもその扱いが変わらなかったことは、彼女に居心地に悪さと言いようのない疎外感を与えた。 特に使用人たちは香流の動向に注意するよう主人にきつく言われているようで、何事かを頼むと逐一、それを彼の耳に入れている様子だった。 どこに行くにも、何をするにも必ず誰かに干渉される日常は異様な感じさえする。 それは彼の愛情とか独占欲といったものの表れではなく、むしろ信用されないが故の監視ではないのかと思えることすらあった。 それでも香流は彼を信じるしかなかった。 ようやく今置かれている立場を受け入れて日常を取り戻し始めた彼女だったが、一年にも及ぶ時間を失ってしまった今、言い知れぬ不安と焦燥感が消えることはない。 記憶を失くす前の自分が何を考えどう行動していたのか、それが一瞬にしてリセットされてしまったに等しい状態で、彼女は想像を絶するストレスを抱えている。 側に頼れる人がいない心細さの中で、彼の語る二人が夫婦として共に辿ってきた軌跡はある意味で大きな心の支えになっていた。 日が経つにつれて新たな生活にも慣れ、少しずつ落ち着いてきた。 だが彼女には未だ腑に落ちない点がいくつかある。 その一つが彼女の元に写真が一枚もないことだ。 不思議なことにそれはこの一年間のものに限ったわけではなく、子どもの頃に撮った写真や卒業アルバムの類まできれいになくなっていた。 もしかしたら子供のときのものは母がどこかに保管していてこの家には持って来ていないのかも知れない。そうは思ってみたものの、自分はおろか母の写真一枚さえ見当たらないのはあまりにも不自然な気がした。 自分が辿った年月を知る貴重な写真がどこにも見当たらない。今手元に残されているのは彬が入院中に見せてくれた結婚式の時に撮った数枚の写真だけ。それ以外はまるで意図して隠したかのように跡形もなく消えている。 何とかして記憶を取り戻すためにも、記憶から抜け落ちた時期の写真を見たいと思い当たる所を探したが、アルバムはおろかスナップ写真の一枚も見つからなかった。 きっと二人で撮った写真もあるであろうに、思い出を留めたものが見事なまでに何一つ残らずなくなっているのだ。 ここに帰ってきてから、一度だけ彼に写真の所在を聞いてみたことがあったが、なぜか彬は言葉を濁した。 その表情は硬く、それは聞いてはいけないことだったのだと瞬時に悟らされた。なぜ答えてくれないのか、理由を知りたいという思いは捨てきれないが、彼が見せた苦悶に満ちた表情を思い出すと、再びそれを切り出すのは躊躇われた。 夫のことを信じたい。心ではそう思っていても、どこかでそれを強く拒む自分がいることに彼女はひどく困惑していた。 彼が何かを隠しているという疑念をどうしても拭い去ることができなかった。 そのわだかまりは日を追うごとに大きくなり、彼女の心を不安に追い詰めていく。 「香流、いるのか?」 急に背後のドアが開き廊下の光が戸口から差し込んできた。 気がつけば日はとっくに落ち、窓の外は闇に包まれていた。 電気もつけず、自室でぼんやりと考え事をしていて、気付かない間に彬が帰ってきたらしい。 「ああ、お帰りなさい…」 夫は彼女の側に歩み寄ると、軽く抱き寄せ頬に口付けを落とす。 「…っ」 香流は反射的に顔を背け体を捩ると、彼の腕から逃れようとした。 なぜなのか分からない。だがいつも彼女は無意識に夫との間に距離を置こうとした。 失った記憶の中の夫は最愛の恋人であったはずなのに、彼女の体は条件反射のごとく彼の抱擁を拒むのだ。 「ごめんなさい…」 自分でもよく判らない。何がこうさせるのか。 「いや…」 彼は身体を強張らせる香流を腕から開放すると、指で優しく頬を撫でた。 「お食事は?」 「すませてきた。これからまたすぐに出かける。帰りは遅くなるから先に休んでいなさい」 この家に来てからというもの、二人は一度もベッドを共にしていない。 最初は退院時にしばらくは安静にするよう指示された香流のために寝室を分けることにしたのだが、ほぼ体調が回復した今もその状態は続いている。 休む時は別々とはいえ、できるだけ帰宅を待つようにしている彼女だったが、ここのところ連日深夜の帰宅で待ちきれずうたた寝をしてしまう香流の体調を気遣ってくれる。 そんな彼の優しさが辛かった。 彬が立ち去った後、部屋に一人残された香流は言いようのない虚しさに囚われた。 まだ本調子ではないから。 そう言い訳して彼とベッドを共にすることを先延ばしにしている自分が情けなく、それを覆す勇気がない自分はもっと惨めな気さえした。 彬は決して自分からは誘わず、彼女が自分で体の回復を判断し、自分の意志で彼の元に戻るのを待っているようだった。 彼と自分が送っていたという幸せな結婚生活では、当然そういうこともあってしかるべきだったとは思う。 けれどもなぜか今、彼女の体は無意識に彼を拒むのだ。 理由の分からない拒否反応に抗うように、何度も彼にこの体を委ねようと努力はしてみた。けれども体を撫でる彼の手を、唇を、どうしても受け入れようとはしない自分。 記憶を失くす前には夜ごと触れ合っていたであろう互いの肌の感触は、おぼろげながらも彼女の中に残っているのに、あの頃とは何かが違う。 無論、彼もそのことには気付いているはずだ。彼に触れられるたびに緊張のあまり体が硬直してしまうのだから。 過去の自分は一体何を恐れ、何を拒み、何を求めていたのか。 今の彼女には何一つ思いだせない。 そんな自分が歯痒かった。せめて彼のことをほんの少しでも思い出すことができたら…。 しかし遅々として戻らない記憶は彼女の不安を煽るだけだった。 香流は閉ざされた扉に向かってうなだれた。 彼の優しさに対して申し訳なく思う一方で、何も思い出せない自分の不甲斐なさが情けなかった。 彼女は俯いたまま再び「ごめんなさい」と呟いた。 本当は自分が何に対して謝っているのか、それさえもわからないままで。 HOME |