意識が戻ってからの香流の回復はめざましく、ひと月後には体力はほぼ元通りになったと医師が太鼓判を押した。 精神的なケアは継続しなければならないが、少なくとも入院して治療を受ける必要はなくなった。 「明日退院の許可が下りる。家の方はいつ君が帰って来ても良い様に準備は済んでいる。ここの荷造りをする者を手配したから、君はそこから指示をすればいい」 退院を翌日に控えた日の午後、彬は数人の業者を引き連れて香流の病室を訪れた。 衣料品以外には大した荷物もないのに、他人の手を煩わせることを当然とする彼の考えが香流には理解できなかったが、既に来てしまった業者たちの手前、無下に断ることもできず、段取りよく片づけをする彼らを黙ってみているしかなかった。 「自分の荷物くらい自分で片付けられたのに」 業者たちを送り出した後、彼女が抗議の声を上げる。 「まだ君は本調子ではないんだ。無理はしないでくれ」 そう言って頬に触れようとする彼の手から、香流は反射的に身を引いた。 二人の間に気まずい雰囲気が流れる。 それを取り繕うように、香流が先ほどから感じていた疑問を彼にぶつけた。 「家って…」 「もちろん、小早川の家だが」 「でも、そこはあなたのお家でしょう?」 「そして、今では君の家でもある」 「私の家はあのアパートです。きっと母が待っているから、帰って顔を見せて安心させたいの。ずっと具合が悪かったからこんなことになってどんなに心配しているか」 「あそこに行ってももうお母さんはいない。何度言ったら分かるんだ? 君が僕と結婚した時にお母さんも一緒にアパートを引き払った。そして完全看護の療養施設に入ったんだ。 その頃あまり病状が思わしくなくてね、お母さんは君の負担になりたくないと環境が良くて医療設備が整った施設を自分から選んだんだよ」 いくらそう言い聞かされても、彼女にはその言葉が信じられなかった。 今までだって、どんなに彼女たちが生活に困っていても誰も面倒をみようと言ってくれる人はいなかった。頼りにする身内もいない。 だから何とか二人だけで身を寄せ合いながら、苦しい時も凌いできたのだ。 ただでさえ高額な費用のかかる、完全看護のサナトリウムなどという夢のように贅沢な環境を、おいそれと他人が母に与えてくれるわけがない。 「私はずっと母と二人だったし…。確かに母は病気がちになっているけど療養が必要なほど体調が悪いなんてことはなかったわ。悪い冗談なら止めてください」 彼女は頑固にそう主張し続け、彬の説得を拒んだ。 百歩譲って彼を夫だと認めるとしても、今の彼女がまず一番大事に思うのは、たった一人の肉親である母親にほかならなかった。 「母が待っているから、私は自分の家に帰ります」 もちろん彼女の言う「家」は彼の住まいではない。彼女と母が昔から住んでいる古いアパートのことだ。 古びた二階建てのアパートは、上階の住人が昇り降りするたびに錆びた鉄の階段が軋んで音をたてる。いつもは気に障るその軋みが何故か無性に聞きたかった。それはまだ彼の言う現実を受け入れきれない彼女が、無意識に確かな記憶を、そして自分がそこに存在したことを確認できる何かを求めていたからなのかもしれない。 「これが…あなたの車?」 退院の日、迎えに来た彬とともに病院の玄関を出た香流は、そこに横付けされた高級車を見て目を丸くした。 さっと出てきた運転手に触ったこともないような黒塗りの外車のドアを開けられてもどうしてよいやら分からず、その場に立ち尽くしたまま側にいる彼の方をただぼんやりと見上げた。 「厳密には会社の車だ。さあ、乗って」 促されても身体が動かない。 彼はその様子を見ると徐に香流を抱き上げ、弱々しい抗議の声をあげる彼女を無視して素早く後部座席に乗り込んだ。 外観に劣らず内装も贅を尽くした車内で、彼の隣に乗せられたまま、香流は注意深く周囲を見回した。 窓には濃いスモークが入り、シートは総革張り、運転席とこちらを隔てる仕切り板までついている。今彼女が乗っているのは、テレビや映画で見るお金持ちの使うリムジンそのものだった。 そういえば退院する時に初めて気付いたのだが、彼女が半年以上もの間いたという部屋はただの個室ではなく特別室のようだった。 ホテルのような室内に、シャワーだけでなく浴槽まである風呂、トイレ、簡易クローゼットにミニキッチンまで着いていた。入院中は常に誰かに監視されていて自由に外に出ることもできなかったが、そっとのぞいた他の病室は同じ個室でもずっと簡素な造りだった。 そういう目で見ると、彼のスーツも仕立てが良くかなりの高級品であることは間違いない。 恐らく靴も。 腕に光る時計も、高価な品に縁のない彼女には判らないがきっとブランドものなのだろう。 彼女はその時やっと気付いた。彼はかなりの資産家なのだと。 彬がどんな仕事をしているのかを彼女は知らない。どこに住み、どんな生活をしているのか、それさえも知らないのだ。 彼は自分の…夫だというのに。 「信じられない…」 香流は顔を背けると、彼に気付かれないように小さく溜息をついた。 生活レベルの差を考えただけでも、自分が彼の妻であるということが信じられなかった。 病院を出ると、二人を乗せた車はあるところへと向かった。 車窓に映る景色はだんだん住宅地へと変わり、気がついた時には彼女が長年慣れ親しんだ細い路地へと進んでいた。 「さあ、自分の目で確かめるんだ」 「う、そ、こんな…」 促され車から降りた香流は呆然とその場に立ち竦んだ。 あるはずのアパートがない。 彼女の帰るべき家はそこに存在していなかった。 場所は間違いない。 両隣の民家や向かいの公園は記憶のままだ。しかしそこにはただ、何もない更地があるだけだった。 物心ついたときから母と二人で暮らしてきた思い出の場所は、跡形もなく消えうせていた。 「半年ほど前に取り壊されたそうだ。それ以来空き地になっている」 途方に暮れ、何もない場所をじっと見つめるしかない香流を引き寄せると、彬は彼女を自分の方を向かせた。 「これでもまだ僕の言うことが信じられないか?」 彼女は呆然としたまま、うつろな目で彼を見上げた。 一瞬にして自分が存在する根源が根こそぎなくなってしまったような気さえした。 本当に私はここにいたのだろうか。 目に写るもの全てが色を失い、揺らいで見えた。 「さあ、帰ろう」 彼が手を差し伸べる。 この手を取ればもう後戻りはできないと分かっていた。 しかし帰る場所が無くなってしまった今、彼にすべてを委ねる以外残された選択肢はなかった。 震える手をおずおずと差し出し、彼のそれに重ねる。 彼は、香流の戸惑い、不安、そして恐れのすべてをその手に引き受けた。 その瞬間、彼女の運命は決まった。 静かに車は動き始め、窓の景色が後ろへと流れ出す。 香流は身動き一つせず外の景色を見ていた。 これから始まる未知の生活への不安に怯えながら。 こうして彼との新たな生活が始まった。 しかしそれは普通に考えていたようなものではないことがすぐに分かった。 夫と暮らすといっても、そこに住んでいるのは彼だけではない。 家族と呼べる種の者は彼女たちだけだったが、棟こそ違えども同じ敷地に使用人たちが大勢住まいを構え、朝から晩まで家の内外に出入りする。 大体にして家と言ってもその規模は屋敷と呼べるほど大きく、まるで毎日どこかの旅館かホテルにでも泊まっているような生活だ。 学校から帰るとまず「おかえりなさいませ」というお手伝いさんたちの声に出迎えられる。その抑揚のない声はいくら聞いても違和感が拭えなかった。 「帰りました…」 一言だけ返すと、そのまま自室に引きこもる日が続いている。 何故かはわからないが、表面的には慇懃な彼らの言葉の端々に見える欺瞞に馴染めないせいなのかもしれない。 以前の自分は彼らとどう接していたのだろうか。 何か彼らの気に障るようなことをしてしまったのだろうか。 直接聞いてみたい衝動に駆られるが、どういう返事が返ってくるかは凡そ見当がつく。例え何か思うところがあったとしても、彼らが雇い主の妻である彼女に正直な答えを述べることは期待できないだろう。 自分の家。 広い庭や磨き上げられた室内は豪華で確かに見た目は美しい。 しかしここは彼女の住み慣れた「家」とはあまりに違いすぎた。 香流はその違和感に苦しんでいた。 この冷たい場所に、彼女が求める温かみはどこにもない。 香流にとってこの家は、見えない格子で囲われた、贅を尽くした牢獄のようにしか感じられなかった。 HOME |