夜明け前の冷え込みに震え、目を覚ますとそこはリビングだった。 どうやら昨日はここで眠り込んでしまったらしい。 それも床のラグの上に。 彼は訝しく思いながらも、いつの間にか自分にかけられていた毛布を剥いだ。 硬い板の上で眠ったせいか肩や背中が凝っている。起き上がり、肩をぐるりと回すと大きく伸びをした。 ふと周囲を見回す。 いつもとは何かが違った。 その違和感を認識するのに時間はかからなかった。 彼の視界に香流がいなかった。 部屋のどこにも彼女の姿がなかったのだ。 慌てて立ち上がった彼は、自分の姿を目にして呆然とした。 昨夜のことは幻などではない。 自らの乱れた衣服がそれを雄弁に物語っていた。 僕は彼女になんて事をしてしまったんだ? しかし考えている暇はなかった。 家中を見たがやはり彼女はいない。 誘拐?それはありえない。 ずっと彼が側で眠っていたのだ。彼を起こさずに香流を連れ出すことはできなかったはずだ。 彼女が自分から外に出てしまったのか? とにかくすぐに香流を探さなければ、大変なことになる。 あの状態で道に飛び出したら、いや、もしかして海に落ちでもしたら…。 玄関で靴を履きながら肌蹴たシャツのボタンを留めようとした彼はふと気付いた。 香流の靴がなかった。 いつもは必ず誰かが手を貸し履かせているのに。彼女が自分で履いて出て行ったのか? 別荘を飛び出すと一目散に通りを目指した。 見回した道路には時折車のライトが走るだけで、彼女の姿は見えない。 海、海だ。 今度は海岸に向けて走る。 昨日、香流と歩いた道をひたすら走った。 遠目に、薄暗い砂浜に座る人影を捉える。 防波堤の切れ間から海岸に下り、近づいていくと果たしてそこにいたのは香流だった。 砂浜に膝を抱えて座る彼女は、じっと海を見ている。 「心配したよ」 その時信じられないことが起こった。 彼の声に反応した彼女が振り返ったのだ。 「来てくれたのね。見て、あそこ」 言葉を返した彼女に更に驚きながらも、指差した方に目を遣る。 波打ち際に、今にも海に引き込まれそうになっている小さなもの。それが昨日彼が折り取ったミモザの枝であることに気付くのに暫くの時間が必要だった。 二人が無言で見守る中、小さな黄色い花は何度か打ち寄せた波に引かれ海原に出て行くと、間もなくその姿を水の中に消した。 それを見ていた香流がぽつりと話し始める。 「昨日ね、あの子が…会いに来てくれたの」 じっと姿の消えた波間を見つめながら声を詰まらせる。 「小さな手で、私の頬を撫でて…私のことを『ママ』って呼んでくれたような気がしたの」 小刻みに震える肩を抱くと、彼女が胸に縋り付いてくる。 「許されたのだと。私はあの子に母親と認めてもらえたのだと思った」 すすり泣きは嗚咽に変わり、そして号泣になった。 「あ、あの子を、か、帰さなければと、思ってここに来たの。でも、でも…」 あとは言葉にならなかったが彼にはわかっていた。 本当は帰したくなんてなかった。だから最後まで、あの花が水に沈んで見えなくなるまで食い入るように見つめていたのだと。 やがて嗚咽がおさまり、しゃくり上げる声も聞こえなくなった。 見ると、腕の中で静かに揺られていた香流が彼を見上げている。 その顔には今までなかった安らぎの表情があった。 「彬さん」 俄かには信じられなかった。 幻聴ではない。 そこに彼女がいる。そして彼を見つめ、紛うことなく彼の名を呼んでいる。 「分かるのか?僕のことが、分かるのか?」 頷くと香流は彼の首に両腕を回した。 「長い夢を見ていたような気がするの。夢の中で誰かを、何かを探し続けていた」 彼女の指にわずかにこもった力で彼の顔が引き寄せられる。 「一人ぼっちだった。辛くはなかったけれど、寂しくて哀しくて。でもね…」 唇が彼の耳に触れる。 ずっと誰かに呼ばれていた。 聞こえていたの。 懐かしくて、優しくて、温かい声が。 その声が私をここに導いてくれた。 彬が彼女の首筋に顔をすり寄せる。その頬には伝う涙があった。 声にはならなかったが彼には聞こえたのだ。 彼女の想いが、心に直接響いてくる。 ―― 私には確かに聞こえていたの。耳元で囁くあなたの声が ―― 空が白み、黎明の海の色が黒から青へと変わっていく。 香流は彼の胸に背中を預けてその光景を見つめていた。 ゆっくりと昇り始めた太陽へと水面に伸びる一筋の道。 その道を辿る小さな足音が二人の耳に聞こえたような気がした。 彼女は祈った。 願わくば、いつの日か再び私たちの元に、と。 「お帰り、香流」 振り返ると、彼の顔には優しい笑みが浮かんでいた。 そして彼は彼女が一番聞きたかった言葉をその耳に囁いた。 「愛してるよ、永遠に」 彼女の目に眩しいほどの輝きが戻る。 「愛しているわ、あなただけを」 かつて言えなかった言葉がよどみなく口から零れる。 二人はどちらからともなく唇を重ねた。 そんな彼らを祝福するかのように、生まれたばかりの朝の光が二人の姿を暁の色に染めていた。 HOME |