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あなたの声が聞こえる 21


ここはどこだろう ――
いつもと違う懐かしい香りに誘われた彼女は、目の前に広がる風景に目をやった。
一面の黄色い花が咲き溢れ、まるでカーテンのようにそよいでいる。

彼女はずっと夢を見ていた。
それは悲しいものではなかったけれど、どこか寂しく切ない夢だった。
いつも何かを探していた。
何を探しているのかは、自分でも分からない。
すぐ側にあって手を伸ばせば届きそうなのに、その姿は見えなかった。

また誰かが呼んでいる。

低く、包み込むように優しく温かい声。

薄いヴェールの向こうからいつもその声が聞こえるのに、彼女はそこに行けなかった。
いくらかき分けても、何重にも重なるヴェールの波が彼女の行く手を阻み、声のする場所に辿り着けないのだ。
今日もまた、声は彼女を呼びながらゆっくりと遠ざかっていった。
香流は叫んだ。そして浮き上がりかけた意識の中でその声を追った。

「教えて?あなたは…誰?」


気がつけば場面は呆気なく変わっていた。
今、自分は穏やかな風に吹かれ揺られるブランコに座っていた。
そこにはどこかで見た懐かしい風景があった。

彼女の腕に小さな温もりが縋りつき、かわいらしい声をあげている。
漂う優しい香りを何度も吸い込みそっと顔を寄せると、その温もりは小さな手を伸ばし彼女の頬を擽った。
「あの子だ」
なぜか彼女はそう思った。
目には見えないが、その温もりと重みはしっかりと腕に感じられた。
「やっと会えた」
腕の中に感じる小さな鼓動と密やかな息遣いを愛しげに抱きしめる。
その心地よい感触にうっとりと目を閉じると、香流は急速に眠りに引き込まれていった。


夕方になると風が凪ぎ、海は穏やかな夕日に照らされていた。
管理人夫妻が夕食を準備する間、彬は香流を連れて散歩に出かけた。
海沿いを歩くと犬の散歩をする人やジョギングをする人、時を忘れて波を追っていた若者たちとすれ違う。
忙しない都会の生活とはまったく違う時間がここには流れているようだ。
のんびりとした海岸線を歩き疲れたところで、防波堤に腰を下ろした二人を水平線に沈んでいく太陽が赤く染めている。
目に痛いくらいの夕日だった。
香流はじっとそれを見つめていた。その頬は夕日に照らされ赤く色づいている。
青白くなってしまった肌に射した朱が久しぶりに彼女に血の気をもたらしたようで、彼は日に染まり陰影のついた顔をじっとのぞきこんだ。

昼間のあの反応は一体何だったのだろうか。

あれからしばらく眠った後、目覚めたときにはいつもと同じように無表情な彼女に戻ってしまった。一瞬抱いた淡い期待はすぐに落胆へと変わってしまった。

陽が沈み、あたりは急に夕闇が迫ってくる。
春とはいえ日没後の海岸に吹き寄せる風は冷たかった。
そろそろ帰らなければ管理人夫妻が待っているかもしれない。彼はいつまでも水平線を見つめ続ける香流を立ち上がらせると肩を抱き、来た道を戻り始めた。

「香流?」
機械的に足を動かし、ぼんやりと前を見ていた身体が不意に立ち止まる。
彬が横に立つ香流を見ると、彼女の目はその視線の先に蠢く小さな影に吸い寄せられていた。
やっと歩けるようになって嬉しくてたまらないという風情で、その小さな影はよろけながらも臆することなくどんどんこちらへと近づいてくる。そして二人の足元まで辿り着くと、バランスを崩したように彼女の足にしがみ付きながら尻もちをついた。
「まぁ、すみません」
母親らしき若い女性が、二人に詫びながら近づいてくる。
彬は足元でぐずる子供を抱き上げ、お尻についた土を払ってやるとその子を母親に返した。
「ごめんなさい。歩き始めたばかりで目が離せなくて」
女性が手をさし出すと、奇声を上げて彼の手からそちらへ移ろうと身を捩る。
母親に抱き取られた途端に子供の機嫌は直り、満面の笑みを浮かべて二人に向かってぎこちなくバイバイと手さえ振って見せた。

二人の子も産まれていればあのくらいにはなっていただろう。
もしかしたら、今頃三人でこの道を散歩していたかもしれない。

彼はその考えを打ち消すように小さく首を振った。いや、「もしも」という考えは止そう。
今更それを思ってみたところで、どうなるわけでもないのだから。

会釈をして去っていく母子を見送った彼は、側から聞こえるか細い唸り声に驚き振り返った。
そこにあったのは俄かに信じられない光景だった。
香流が泣いている。
声を押し殺し、小さく喉を震わせる彼女の目からは止め処なく涙が溢れていた。
香流も同じことを感じていたのだ。
そう確信した彼は思わず彼女を抱き寄せた。肩を震わせ嗚咽を漏らす小さな身体をしっかりと包みながら、その消せない痛みを癒してやりたいと、彼は心から願った。
そこにあったのは互いを労りあう夫婦であり、子を失うという同じ悲しみを共有する父と母の姿だった。


夜の帳がおりたリビングで、ソファーに座ったまま彬はじっと暗闇に浮かぶ庭の景色を眺めていた。
真っ暗な庭にぼんやりと黄色い花が浮かんでいる。
膝には泣きながら眠ってしまった香流が頭を乗せ、静かな寝息を立てていた。
彼女の髪を撫でながら、彼は一人、あの事故からここに来るまでの長かった軌跡を振り返っていた。

あの夜のことは結局事故として処理された。
周囲は好き勝手に憶測し無責任な噂をたてたが、最後には金と力に物を言わせてすべてを抑え込んだ。
だが彼には分かっていた。香流は自らあの闇に落ちていったのだ。
あの時見た、香流の哀しげな微笑が脳裏に焼きつき、長い間彼を苦しめ続けた。
病院で一命は取り留めたものの、意識が戻らない彼女を見る度に、心の中で問い続けたのは「なぜこんなことに?」ということだけだった。

突然意識が回復したと連絡があり、駆けつけた自分を見て、彼女は「あなたを知らない」と言った。
香流は彼に関する記憶をすべて失っていた。
この状況を嘆く反面、これはチャンスを与えられたのだと思った。
今まで彼女にしてやれなかったこと、伝えられなかったこと、そのすべてをやり直すチャンスなのだと。

だから彼女に偽りの記憶を与えた。
少しでも香流が自分に馴染むように、彼の元から離れていかないように、今度こそ彼女を逃がさないようにと、何重もの檻を巡らせ囲い込んだつもりだった。
だが…彼女は自分の手でその封印を破り出てしまった。
そして真実を掴んだその代償として、再び自らを傷つけ、取り返しがつかないところまで自分を追い込んでしまったのだ。

もう彼には成す術がなかった。
ただ見守る以外は。


ぼんやりと髪を撫でていた彼の手に、何かが触れた。
驚いて見下ろすと香流がその手を握り、彼を見上げていた。
その唇が誘うように少し開き、優しげに彼の名を呼ぶ。

幻だ。
僕は今、幻を見ているのだ。
そう思いながらも、彬はひと時の幻影に身を委ねた。
首に回された手の滑らかな感触が、忘れかけていた情熱を呼び覚ます。
ひと時の幻でも構わない。
彼女に求められるなら、例え狂気と紙一重であろうとも、彼はそれに応えたかった。
組み敷いた体に自分を沈めていく。
できることなら、その小さな体を自分の中に溶け込ませたいとさえ彼は思った。二度と離れられないように一つになってしまいたいと。
そして動くたびに体を掠める小さな喘ぎを感じながら、喜びに震える彼は果てるまで香流の耳元で愛の言葉を囁き続けた。
「愛してるよ、香流。君だけを永遠に…」

一夜の幻。
叶わぬ夢。
しかしそれは彼にとって至福の時だった。




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