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あなたの声が聞こえる 20


屋敷に連れ帰った後も、香流は自分の中に引き篭もったままだった。
専任の看護師をつけ身の回りの世話をさせたが、自分から何かをして欲しいという意思表示は一切なく、ただ誰かに指示されたとおりに動くだけだ。
朝、ベッドから起こされ小さな子供のように服を着替えさせられても恥ずかしがることさえしない。
食事の時間になり促されて食卓につくと、口元に運ばれる、小鳥が啄ばむほどの僅かな食事を摂る。そして他人の手を借りて髪をとかし、洗面して身支度を整えた後、昼間は穏やかな日差しがさし込むサンルームで日がな一日ぼんやりと椅子に座ったまま過ごしていた。
手を引かれ部屋の窓際に来て、いつもの場所にある椅子に座ると何時間でもそのまま静かに窓の外を眺めている。
誰かが連れにくるまで、何時間でもただじっとそこに座っているのだ。
それが今の彼女の生活だった。
自分からは何もしようとはしないが、何をされても抗うことはなく、衣服を脱がされ、浴室で看護師に身体を洗われることにさえ、何の反応も起こさない。
自分のことは自分でする、と頑ななまでに人の手を拒んだ嘗ての香流には考えられないことだった。

いつも彬が帰宅する時間には、すでに香流は入浴を終え床に入っている。
彼は帰ってくると一番最初に彼女の部屋を訪れるのが日課になっていた。
反応などないと分かっていながら、ドアをノックしてから部屋の扉を開ける。
照明を落とした薄暗い部屋の中で、香流は眠っていることもあれば、天井を見つめたまま静かに横たわっているだけの時もあった。

「帰ってきたよ、今日は何かいいことがあったかい?」
毎日繰り返される同じ問いかけに、彼女が答えたことはない。
だが時折握った彼女の手が握り返してきたときは、もしかしたら自分の声が届いているのではないかと淡い期待をしてしまう。しかしその度にうかがい見た彼女の瞳にこの世の色が写されることはなかった。
医師によればそれは音や肌刺激に対する条件反射のような反応だろうということで、回復に結びついているわけではないと言う。
期待と落胆、彼は何度その間を行き来したか分からない。

無感情、無表情で反応を示さない香流はまるで存在感がなく、霞のようだ。
以前の彼女が放っていた眩しいほどの生命力はその影さえなくなり、後に残ったのは抜け殻のような小さな身体だけだった。
そんな香流に成す術もなく、彼は側でそっと見守るしかなかった。

夜が更ける頃になると、彬は再び彼女の元を訪れ同じベッドで眠りにつく。
意識はないはずなのに、香流は必ず横に滑り込んだ彼の人肌の温かさに擦り寄ってくる。
そんな彼女の体を抱き寄せるながら、いつも彼は自分を悔やんでいた。

こんな風になってしまう前にもっと彼女を抱きしめてやればよかった。
そしてどれほど彼が彼女を愛しているかを言葉にして伝えていれば、彼女の中に巣食っていたあらゆる不安を拭い去ることができたかもしれない。
もう少し早くそれに気がついていたら…。

もしやり直せるのであれば、今度こそこの腕から放しはしない。
彼女の望むことは何でも叶えてやろう。不安を感じる暇もないくらい思う存分に甘えさせてやりたい。
彼が大切に思うのはこの世にたった一人、香流だけだとちゃんと彼女に伝えたかった。

彬の思いを知る由もなく、腕の中で穏やかに寝息をたてて眠る妻。
その安らかな寝顔を見ながら夫は彼女に唇を寄せる。

それは毎夜、眠りに落ちる寸前に行う儀式。
彼はいつも彼女の耳元で切なげに、幾度も優しく囁きかける。
「戻っておいで香流、僕の元へ…」と。



それから半年あまりの月日が流れた。
相変わらず香流は自分の殻に籠もったままひっそりと暮らしている。
最近では、彬もそれでよいと思うようになった。
自らを責めるあまり、心のバランスを崩してしまった彼女を無理やり引き戻し、現実に立ち向かわせるのはあまりにも酷なことなのではないかと今更ながら悟ったのだ。
周囲はこの成り行きに眉を顰め、香流と別れて新たな伴侶を探してはどうかと意見するものもいたが、彼は頑としてそれを拒み世間の冷たい眼から彼女を庇い続けた。

失った子供も、彼女の正気も取り戻すことはできない。
今の彼にできることは、ただありのままの姿の彼女を受け入れ、守ってやることだけだった。


春の穏やかな暖かさを感じるようになった頃、彬は香流を連れて海辺の別荘を訪れた。
初めて彼女を連れてきた時と同じように誰にも邪魔されずに過ごしたいと思った彼は、使用人たちの同行を断り二人だけでここに来た。

車を降り、彼女の肩を抱いて玄関を入ると、真っ先にリビングへと足を運ぶ。
そしてそこから庭へと続くフレンチドアを開け放つと、香流を連れてテラスへと出た。
裏庭は一面黄金色に輝くミモザが枝一杯に咲き誇り、柔らかな風に揺られている。
そこには二年前、彼女を初めてここに連れてきた時と同じ情景が広がっていた。あの時彼女は感動に頬を染め、目を輝かせてその美しさに魅入られていた。
まさかその数年後、再び訪れた同じ風景の中で、生への情熱を失った彼女を見ることになろうとは思いもよらなかった。

テラスのブランコに香流を座らせると、彬はあの日と同じように細い枝を一本手折り彼女にさしだした。
「ほら見てごらん、満開だよ」
彼女は暫くの間それをぼんやりと見ていた。
あの時もこうして彼女に花を渡した。
だが、香流は礼を言い受け取りながらもやんわり諭すように枝を折らないように彬に言った。不思議そうな顔をした彼に少し気まずそうにこう続けたのだ。
「だってお花がかわいそうでしょう?」
自然のままに捨て置けば、満開の時期を過ぎやがて散り行く運命でも、次の世代に命をつなぐことができる。だからその機会を奪わないでほしいと。
香流はそういう女性だった。

もし自分が手折らなければ、きっと彼女もこの花のように若さ溢れる輝きを放ち、今を盛りと咲き誇っていたのかもしれない。
彬の瞳に暗い影がよぎる。
その側で彼女は身じろぎもせず、ただじっと捧げられた黄色い花を見つめていた。

「香流…?」
不意に彼女の手が彼の方へと伸びてくる。
驚いたことに、彼女はその枝を受け取り胸に抱きしめた。
「香流分かるのか?」
返事はなかったが、香流は目を閉じ大事そうに枝を抱きなおすと何度もその花に頬を寄せた。
その口元には薄っすらと笑みさえ浮かべている。
これほど穏やかな彼女を見たのはいつ以来だろうか。
目を逸らすこともできずにしばらくその顔を眺めていた彬は、彼女の呼吸が規則的に小さくなったことに気付いた。
香流は花を抱いたまま眠っていた。
その姿はまるで小さな子供をあやしながら眠ってしまったように見えた。




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