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あなたの声が聞こえる 2


授業の終わりを告げるチャイムとともに、学生たちのおしゃべりが始まった。
窓の外、遠くからはテニスをする音やどこかの運動部の掛け声が聞こえてくる。

とある大学の、いつもと変わりないのどかな光景。
ぼんやりとそれを見ていた彼女は、一つため息をつくと鞄を持って立ち上がった。

小早川香流はこの大学の3年生。最近復学したばかりだ。
ある朝、目が覚めると彼女はある部分の記憶を失っていた。
もっと正確に言えば、ここ一年あまりの記憶がすっぽり抜け落ちて、消えていたのだ。
覚えている限り、彼女はこの大学の2年生だった。そして今でも自分の中では時間はその時のままだ。
だが、実際に自分が居る講義室は3年生のクラスで、すでに専門課程に分かれている。テキストもノートもクラスメイトも、すべてが記憶の中と変わってしまっていることを知った時、やはり最初はショックだった。
 
そして変化は周囲だけでなく、自分自身にも起きていた。
病院で意識が戻った翌日、看護師に頼んで持ってきてもらった手鏡の中に写った自分の顔を見た時は、あまりのことに言葉を失った。
青白く頬がこけていて、まるで何年も日に当たっていない病人のようだった。
こんなに覇気のない、憂鬱そうな表情をした自分を見たのは初めてかもしれない。
それに自慢だった艶やかな長い黒髪は、容赦なくばっさりと切られ、見る影もなくなってしまっている。
「これでも半年の間に少し伸びたのよ。ここに来た時はほとんど丸坊主に近かったから」
髪に手をやり、声もなくただ呆然と鏡を見つめる彼女を気遣って、看護師がそう教えてくれた。
ここに運び込まれた時、頭部の処置のためにと言われ、止むを得ず髪を剃り落とすことを夫が承諾したのだと。

― 夫の存在 ―

それが意識を取り戻した彼女を一番驚かせると同時に怯えさせた。

彼を最初に見たのは、器具につながれた病院のベッドの上だった。
そこには親しげに香流の名を呼び、彼女の肌に触れる見覚えのない男性がいた。
彼は小早川彬と名乗った。
そして戸惑う香流に、自分は彼女の夫であると告げたのだ。


「嘘です。私に夫なんているはずがありません」

必死になって否定する彼女に、医師は記憶障害の診断を下した。
誰に何を言っても真剣に取り合ってはもらえず、混乱するばかりだった。
俄かには信じられなかった。
今まで恋人と呼べる男の人さえいなかったのに、いつの間にか彼女は目の前の男性の妻になっていたのだという。
困惑して取り乱し、それを強く否定するたびに彼の端正な顔に険しい表情が浮かぶ。
それでも、どうしても目の前の男性が夫だとは信じられなかった。

彼のことは何一つ憶えていない。
自分の生い立ちや唯一の家族である母親のこと、それまでどういう生活をしていたかなどは鮮明に覚えているのに、彼に出会ったという時期からの記憶がすっぽりと抜け落ちていて、いつどこで知り合ったのかということさえまったく思い出せなかった。

意識が戻った日、最初の混乱がおさまると、彼は香流が半年以上もの間、事故の後遺症で意識不明だったことを語り聞かせた。
これも彼女にはまったく身に覚えのないことで俄かには信じ難かったが、自分の体に残るひどい傷跡を見ると彼の話を受け入れざるを得なかった。

「でもだからと言って、あなたが私の夫だなんて…」
彼の口から出る事柄の一つ一つが彼女を戸惑わせた。
誰だってある日突然「夫」を名乗る見知らぬ男性が現れ、彼と同じ屋根の下で暮らしていたと教えられても「はい そうですか」と簡単に納得はできないだろう。
ましてや記憶がなく、ベッドに縛り付けられたような状況でそれを聞かされているのだから尚更だ。
だが彼は繰り返し言った。「君が僕の妻だということは紛れもない事実だ」と。


数日後、頑なに彼の言葉を拒む香流に数枚の写真が手渡された。
それを見た彼女は絶句した。
純白の豪華なウエディングドレスを着て彼の側に立っているのは紛れもなく自分だった。
顔だけ付け替えた合成写真とか。
そんな疑いが頭を過ぎったが、自分の姿くらい見れば分かる。顔だけでなく背格好や体の特徴も彼女本人のものに間違いない。
覚えがなくともこれを突きつけられては彼の話を信じるしかない。
震える指で写真に納まった身に覚えのない姿をなぞってみたが、どうしてもそれが自分と瓜二つの他人のことのように思えてならかった。

「これ、は…私?」
彼が「実は君ではなく、間違いだったんだよ」と言ってくれたらどんなに楽になれるか。
縋るような目で、尋ねるようにそう囁いた彼女に、彼はただ黙って頷いただけだった。

彼女には、もうその事実を受け入れるしかなかった。
疑う余地はない。どのようないきさつがあったかは分からないが、記憶にない部分で彼と結婚していたというのは間違いないのだろう。
香流は小刻みに震える手で写真を裏返して膝に押し付け、そうすればこの困惑から逃れられるとでもいうように、うなだれて目を閉じた。
大事な記憶を失ってしまったのだという事実が改めて彼女に重くのしかかる。
更にショックだったのは、その写真に写る自分が幸せそう見えなかったことだった。
物心ついた時すでに他界していた父親の記憶はほとんどないが、それでも母が父のことを話すときの幸せそうな顔を見て育った彼女にとって結婚はある種の憧れだった。
幸福の絶頂にいたはずなのに、写真の中の彼女は諦めにも似た、どこか哀しげな表情を浮かべているのはなぜだろう。
何か思い悩むことがあったのだろうか?
しかし今の彼女には、それが何であったのかさえも判らないのだ。
自分のことなのに、何も思い出せないそのもどかしさに唇を噛み締める。

周囲の華やかな雰囲気にそぐわない、寂しげな表情をしたその花嫁の写真は、後々まで彼女の心に暗い疑いの影を落とした。




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