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あなたの声が聞こえる 18


小早川の家を出る。
その機会はパーティーの日に訪れた。
当日は朝から準備に追われる人々が引きも切らずに家中を走り回っていた。その合間を縫って香流は家を抜け出す準備を整えた。
すでに自分が結婚する時に持ってきた荷物だけはすべて箱に詰め、子供部屋に移してある。ここに来てから彼に与えられたものは何一つ持ち出すつもりはない。
もしこのまま彼女が屋敷に帰らなくても、誰の手も煩わせなくてすむようにしたつもりだった。
葉山の別荘の方にも昨日のうちに行き、片づけを済ませてきた。
今はもう、彼女の薬指に指輪はない。
荷物は小さなカバンが一つだけ。
身の回りのものだけを最低限詰め込み、玄関脇の物置部屋に隠した。
持って出たい思い出の品はたくさんあったが、身重の彼女が不審に思われずにここを抜け出すためにもそれは不可能だった。

もうこの屋敷に彼女を引きとめるものは何もない。
あとはその時が来るのをただ待つだけだった。


パーティー会場となった屋敷の大広間は、多くの招待客でごった返していた。
この夜は使用人たちもパーティーにかかりきりになり、彼女への監視が疎かになる。家への出入りも通常より増え慌しくなるし、近くまでタクシーを呼んでも怪しまれない。
香流には願ってもないチャンスだった。

彬と二人、ホストとホステスとして並んで招待客たちを入口で出迎える。
今夜の彼女のドレスは、銀色の光沢を放つ白いシルク。それに薄いシフォンのショールを羽織っている。
挨拶した人は皆一様に少し目立ってきたお腹に目がいくらしく、あちこちでお祝いの言葉をかけられた。
もうどのくらいの人数を招きいれたかも分からないくらいだったが、車寄せに停まる客たちの車を捌く声はまだ終わりなく続いていた。

いくら踵のない靴を履いていても、時間立ちっ放しはさすがに身重の体に堪える。
側に立っていた彬も彼女の顔色の悪さに気がついたようだ。
「少し横になったほうがいい」
彼はそう言うと、彼女の背中を押してその場を離れさせた。
彼女は素直に従った。
今は少しでも彼と離れていたかった。
今夜自分がしようとしていることを彼に知られたら。そう思うと恐ろしいというより辛いと感じた。
彼に裏切られたことより、自分が彼を欺こうとしていることの方が何倍も罪深く思えるのはなぜだろう。
彼女には、自分でもその理由が分からなかった。

自室に戻るとほっと緊張を緩めた。
体が鉛のように重くだるい
。 香流はソファーに沈み込むと、室内をぐるりと見回した。
この部屋を見るのも今日限りかもしれない。
いつの間にかここが自分の居場所になっていた。数々の思い出の場所に。
彼と眠ったベッドも、今はきれいに整えられたままで皺一つない。
昨夜、彼はここに来た。
ただ一緒に眠っただけだが、彼が隣に横たわるのを拒むことはできなかった。
彼と共に眠るのはこれが最後になるかもしれない。
香流は馴染んだ香りに別れを告げるつもりで、その温もりに身を委ねたのだった。

そろそろ会場へ戻らなくては。
彼女は彬への思いを振り切るように、大きく息をすると立ち上がった。
その時ふと目を留めた机の上に一通の封書が置いてあった。
彼女がいない間にだれかが届けてくれたのだろうか。
見ると、差出人は療養所で母の世話をしてくれている女性だった。
こんなものが来たことは今まで一度もない。一体なんだろう。

急いで封を切ると、中から出てきたのは一回り小さな封筒と便箋が一枚。
先に畳まれた便箋を開いた。

「この度のこと、深くお悔やみ申し上げます。
生前、お母様からお預かりしておりましたお手紙を同封いたしましたのでお受け取りください。」

何の間違いだろうかと不審に思いながらも、急いでもう一通の手紙の封を開ける。
それは母が彼女宛に書いたものだった。
封筒の裏に書かれた日付は二ヶ月近く前。
懐かしい母の字が語る言葉を目で追ううちに、それが持つ意味を悟った香流は愕然とした。
手紙は母が娘に当てて綴った遺言だった。

『もし手術が失敗して私が生きられなかったら、その時はどうかこの手紙を読んでください』手紙はそんな言葉で始まっていた。
手紙には自分の病気のこと、彬に世話になったこと、そして彼女の妊娠のことにも触れていた。
そして母の言葉はこう結ばれていた。

『もし元気になれたら、まず最初にあなたの赤ちゃんを抱きたい。
たった一人の娘であるあなたがいたから、私は今まで頑張れたのです。
香流、あなたは私の宝物でした。
これからは彬さんと一緒に、愛情に恵まれた幸せな家庭を築いていくことを心から願っています』
最後は涙で字が滲んだ。

「香流、そろそろ時間が…」
入ってきた彬が、部屋の中央で放心したように立ち尽くす彼女の様子に眉を顰める。
問いただそうとする彼の言葉を遮るかのように、彼女は静かに手紙を差し出した。
「本当なの?」
手紙を受け取った彼の表情が変わる。それを見た香流はその話が嘘ではないということを悟った。
「お母さん、死んだの?」
彼は食い入るように手紙を読んでいる。
「いつ?なぜ?…あなたは、あなたは知っていたのね?」
彬が重い口を開く。
「お義母さんは病気のことは…君に教えない道を選んだ。君の体のことを思って僕にそうしてほしいと望んだんだ。そして手術を受けたその夜、急に亡くなった。心臓発作だった」

覚束ない足取りで彼の横を通り抜けた彼女は、扉へと向かった。
「香流!」
呼び止める声を振り切ると、香流は徐に廊下を駆け出した。
「香流、走るんじゃない!」
彼が追いかけてくる気配がしたが、そのまま走り続けた。
そして彼女の姿はパーティーの人波の中に紛れた。


一体私は何のためにここへ来たのだろう。
何のために彼との結婚を承諾したのだろう。
何のために彼に全てを差し出してしまったのだろう。
一体何のために…。

香流は一人、階上のバルコニーの手すりによりかかると、そんな自問を繰り返していた。
あまりのショックに声をあげて泣くことさえできなかった。
母は彼女にとってたった一人の肉親であり理解者だった。
どんな時も、自分よりまず娘のことを考えてくれた。決して楽な生活はできなかったけれど、それでも何を置いても香流のことを気遣ってくれた優しい母。
そんな母のためだからこそ、何とかして助けたいと、この身を差し出す決心をしたのではなかったか?
すべて無駄だったのだろうか。
母のためと思い、私のしたことは独りよがりな自己満足でしかなかったのだろうか。
答えはなく、虚しい思いだけが彼女に残った。

「とうとう一人ぼっちになっちゃったみたい」
彼女は自分のお腹に手を当てるとそう呟いた。
この子のことを、自分で伝えることさえできなかった。
最後のお別れもできなかった。
一人で旅立たせ、見送ることも叶わなかった。
たった一人の家族だったのに。

「お母さん…」
最後の行き場を失い、家を出るという計画も意味がなくなった。
信じていた夫に裏切られ、最愛の母に死なれた今となっては、もう誰も心から彼女を愛してくれる人はいないのだ。
「お母さん、そこに行ってもいい?この子と一緒に」
手すりを乗り越え下を見ると外は漆黒の海のようだった。どこまでも落ちて吸い込まれそうな、深い深い闇が彼女を手招きするように広がっている。
「香流?」
後ろから叫ぶように彼女を呼ぶ声を聞き、肩越しに振り返ると、そこには顔を強張らせ駆けよってくる夫の姿があった。
たとえ愛されなくても、私は彼を愛していた。
今はその姿を見て、確信を持ってそう言える。
彼女は思った。
最後にあなたの顔が見えて良かった、と。

香流は彼に向かって静かに微笑むと、そのまま手すりを握る手をそっと離した。
「危ない!」
香流の身体が宙に舞うと同時に、彬が彼女のショールの端を掴んだ。
しかし彼が曳いたその薄いシフォンはするすると彼女から剥れ、身体は遥か下の暗闇へと溶け込んでいった。
時間にして数秒、しかし彼には永遠のように長く感じられる時間だった。
どさりという重い衝撃音と共に鋭い悲鳴があちらこちらから上った。
彼女の転落に気付いた会場は、一瞬にしてパニック状態に陥った。

ショックのあまり声も出なかった。
あまりの衝撃に混乱しながらも、彬は人波を掻き分け下へと続く階段を駆け下りた。
すでに近くにいた者が数名、庭園の敷石にぐったりと横たわる彼女を取り囲んでいる。
「まだ息がある、急げ!」
誰かが救急車を呼ぶよう指示を飛ばしているのが聞こえた。
「いい、このまま運ぶから車を回せ」
低く唸るようにそう言うと、彼は側にいた人間を押し退け、彼女を抱えあげるために地面に膝をついた。
ぬるりとした感触に膝の裏に差し込んだ手が止まる。思わずその手を引き抜き薄明かりに目を凝らすと、彼の手は真っ赤な鮮血で染まっていた。
意識のない香流は糸の切れた操り人形のようにだらりと手足を投げ出したまま、悲嘆にくれる彼の腕に掻き抱かれていた。
ただ、その青白い顔に不自然なほどの穏やかな笑みが浮かんでいたのに気付いた者は、誰もいなかった。




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