ひと月ぶりに戻った屋敷は相変わらず重苦しい雰囲気だったが、ひとつだけ香流を喜ばせる変化があった。 彼女の部屋の隣に、新たに子供部屋ができていたのだ。 元は彼女の荷物や道具類を収納する部屋だったのだが、壁紙がきれいに直され、床にはカーペットが敷き詰められていた。 まだ家具はないが、日当たりが良く、爽やかな風が通る空間は居心地のよい明るい部屋になっていた。 ここでこの子が育っていくのね。 大きくなり始めた自分お腹に手を添える。 柔らかなクリーム色の壁と絨毯。まだかけられていないカーテンは淡いピンク?それともブルー? 裸足になって、柔らかい絨毯の感触を確かめる。 「これなら転んでも大丈夫ね」 側に寄りそう彬が微笑んだ。 「外から良い風が吹いてきて、気持ちよくお昼寝ができそうよ」 「君も一緒に寝るのかい?」 からかうように笑う彼にむくれて見せる。 「いつの間にか彬さんも一緒になって寝てるわよ、きっと」 「親子三人で昼寝か。それもいいかもしれないな」 彼女の目に映るその部屋には夢と希望、そして愛が溢れていた。 そして遠からぬ未来、ここで始まる新しい家族との新たな生活に思いを馳せる姿に目を細める彬もまたその幸せな想像に酔っていた。 しかしその幸せな気分も長くは続かなかった。 翌日、産婦人科での検診を終えた香流はその足で彼のオフィスへと向かった。 今日のエコーで、お腹の子供は多分女の子だろうと告げられた。 それを、彬に会って直接伝えたかったのだ。 車の中でお腹を撫でながら彼のことを考える。 彼は女の子がいいと言っていた。きっと手放しで喜んでくれるに違いない。 最近ではお腹に手をやるのが癖になってしまったようだ。気がつけばいつも無意識に手はお腹を撫でている。 私は何て幸せなんだろう。 愛する夫がいて母がいて、そしてもうすぐ子供も産まれる。 こんなに贅沢に愛情を感じたことは今までなかった。あとは彼が私自身を愛してくれていると分かれば、これ以上望むものはないのに。 込み合ったビルの前を避け、少し離れた場所で車を降りると、彼女は足取りも軽く入口へと向かった。 ちょうどその時、彼女の前を地下の駐車場から出てきた見覚えのある車が横切った。いつも彼が使っている車だった。 「彬さ…」 手を挙げその車を呼び止めようとした香流は凍りついた。 ビルの前で停まった車に歩み寄る人影に気がついたのだ。 それは彼女の知らない女性だった。 彼女は運転席に向かって談笑しながら助手席に乗り込んだ。 そしてそのまま車は走り去った。 香流は車が見えなくなった方角に向かってぼんやりと佇んでいた。 あの女性は部下? だが彼はいつも仕事には運転手つきの車を使う。 自分の車を使うのは、プライベートの時だけだ。 きっと友だちか、何かよ。 それでもまだ目の前で繰り広げられた光景が信じられなかった。 だって彬さんは…。 ふといつかのパーティーで言われた言葉が脳裏を過ぎる。 『彼の周りでこういう関係の女は私だけではないのよ。彼はそういう人。それだけは覚えておいた方がいいわよ』 自嘲の笑いがこみ上げてくる。 不思議と涙は出なかった。 私はなんて馬鹿だったんだろう。彼の優しさを愛情だと思い込んでいたなんて。 別荘にいる間の彼は、いつも彼女を大事にしてくれる良き夫だった。 けれどもここに戻れば、彼には別の顔があるかもしれないということなど、考えてもみなかった。 だからなの? 彼は私のことを子供の器としては大事にしてくれたけれど、私を愛してくれたわけではなかった?だから一度も「愛している」とは言ってくれなかったの? ふらりと体が揺れた。 その時だった。 微かだが、体の内側から何かに触れられたような気がした。 胎動? そっとお腹に手をやるが今はもう何も感じない。だがそれはもう一つの命の存在を初めて実感した瞬間だった。 そう、そうだわ。私にはこの子がいる。そして母も。 大事なのは二人だけ。 二人だけは絶対に失いたくない。守ってみせる、何があっても。 新たに身につけた決意は彼女に刹那の希望を与えた。 だがそれは失望の上に築かれた脆く崩れやすい楼閣であることに、その時の彼女はまだ気づいていなかった。 その夜、帰宅した彬とちょっとした言い争いになった。 原因は母のことだった。 すぐにでも母の顔が見たいという彼女に、彼は頑として首を縦に振らなかった。 今は体調も良いし、彼が一緒でなくても一人で行ける。 香流には、それがそんなに難しいことだとは思えなかった。 いつもの香流ならばそこで諦めたかもしれない。だが昼間のショックが抜け切らない彼女はどこまでも食い下がった。 「だめだ。体力が落ちている時に、半日がかりの道中が乗り切れるわけがないだろう。そんな危険なことは絶対に許さない」 なぜそこまで彼が頑ななのか、香流には理解できなかった。 自分は好き勝手しておいて、私には自由はないとでも言うの? 喉元まで出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。 この怒りをぶつけても、きっと彬は言い訳をするどころか平然としていて何も言い返してはこないだろう。 今までだってそうして彼女を煙に巻いてきたのだ。 そう、いつも彼は自分の気持ちを明かさない。そして多分これからも明かしてくれることはないのだろう。 反抗的に顔を背ける香流に彼は眉を顰めた。 彼女らしからぬ反応に何か引っかかるものがある。とりあえず彼女が思いがけない行動に走らないように気をつけた方が良さそうだと彼は考えた。 まさかこの時、身に覚えのない疑いをかけられているなどとは夢にも思っていなかったのだから。 翌日から香流には行動の自由がなくなった。 ちょっとした外出も送り迎えがつき、常に誰かがつきそうようになったのだ。 聞けば彼女の体を心配して、転んだり重い荷物を持ったりしないように気をつけるためだと言うが、それにしてはあまりにも物々しく、まるで行動を見張られているようだった。 勝手に母の所へ行かせないため? 昨夜のやり取りが頭を掠める。 やはり、彼は何かを隠している。 本当は母の具合はかなり悪いのではないか。 そう思うと居ても立ってもいられなかったが、こう始終監視されていては勝手に動くこともできなかった。 屋敷に戻ってからというもの、夫婦の間に小さな諍いが絶えなくなった。 その一つ一つは些細なこと ―例えば彼女の学校のことや買い物に行く先のことなど― が原因だったが、その一つ一つが彼女の中に不審と不安を巣食わせた。 今はもう夫に何を言われても、素直に信じることができなかった。 彼は彼でそんな香流に手を焼き、もっと強い締め付けで彼女を従わせようとしてくる。 そんな状況で二人の思いはどんどんとすれ違っていった。 彼の強引な拘束は、今までになく強く彼女の心を蝕んでいく。 一度は手にしたと思った愛情を奪い去られたという思いは、すべてを強烈な負の感情に結びつけるものだ。 だが彬を思う気持ちを簡単に断ち切ることも、彼女にはできなかった。 そんな弱さに気付きながらも、その深みに嵌まっていく我が身をどうすることもできない自分を呪った。 もう限界だった。 こんな気持ちのまま彬の側にいるのは辛すぎる。このままだと遠からず自分が壊れ、崩れ落ちてしまうような気がした。 もうここには、彼のそばにはいられない。 香流は彼に黙って屋敷を去る決意を固めた。 行き先は母のいるサナトリウム。もちろんそこに滞在することができないのは分かっているが、彼女には他に行くあてなどどこにもないのだ。 これが彼の逆鱗に触れればどうなるかは分からない。 それでも、一目で良いから母の顔を見たかった。 会って子供のことを知らせたかった。 母はきっと喜んでくれる。 彼女は何故だか無性に母の声が聞きたかった。 時計はゆっくりと時を刻み、そして運命の日を迎える。 この時から崩壊へのカウントダウンが始まった。 HOME |