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あなたの声が聞こえる 16


香流の母の葬儀は密葬という形をとり、極親しかった数人の知人だけに知らせた。
本来なら小早川家当主の妻の母として――香流の母として盛大な葬儀を執り行ってしかるべきなのだが、それもできなかった。
すべては母の死を香流に悟らせないために。

通常の安定期に入ったとはいえ、まだ予断を許さない状態が続いている彼女には絶対に知られてはならない。重い悪阻でほとんど食事が摂れない体は妊娠前よりずい分痩せている。今は点滴と安静でどうにか体力を維持しているが、ショックを与えると流産してしまう危険性が大きかった。

「別荘へ?」
「あそこの方が空気がきれいだし気候もいい。今はとにかく体力をつけないと体が持たないだろう」
病院から帰ってきた彼女に、さりげなく転地療養を勧める。
今回も切迫流産をおこしかけて入院を余儀なくされた。
その間に母親の葬儀があったことなど、もちろん彼女は知る由も無い。
ここにいれば、いつ、どこから噂話が彼女の耳に入らないとも限らない。
煩い周囲からできるだけ遠ざけておくには、あの場所が一番良いように思えた。


別荘は、すぐ目の前に海が広がる高台にあった。
「いい風」
「同じ風でも匂いが違うな」
トランクから荷物を下ろしながら、楽しそうに辺りの景色を見つめる香流に目をやる。
驚いたことに、別荘には彬も一緒にやって来た。
多忙な彼がどうやって時間を作ったのかは分からないが、それでも彼女は嬉しかった。
結婚前に連れてきてもらった時と同様、今回もここには彼と香流、そして昼間は通いで世話をしてくれる管理人夫婦しかいない。
彼と二人きりで過ごすのは久しぶりだった。

「少しその辺りを歩かないか?」
夕食を済ませると、彬は香流を散歩に誘った。
二人は点在する民家を縫うように細い道を下り、海岸線まで降りてきた。
その間ずっと彼は香流の手を取り、足元を気遣いながら歩いた。
結婚してから、いやその前でさえ彼とこんな風にして寄り添って歩いたことはない。
彼女がこっそりと夢に見ていた恋人同士の図だが、実際彼とこうしていると何だか気恥ずかしかった。

砂浜に出ると、まだ冷め切らない昼間の熱気が足元からあがってくる。
それでも浜辺を抜ける風は心地よく、二人は低い堤防に腰を下ろした。
胸に抱えられるようにして座る香流のお腹を彼の手がゆっくりと撫でる。

「ありがとう、ここに一緒に来てくれて」
香流は赤くなった顔を見られたくなくて、海の方を向いたまま小さな声で呟いた。
「次に来るときは…三人で見えるといいな」
海に落ちていく夕日の最後の一欠らに染まる海を眺めながら、彼の低い声が耳元で囁いた。
こんな時でもすぐ側で彼の声を聞くと、欲望と緊張はどんどん高まっていく。
妊娠が判ってからすぐに始まったひどい悪阻でそれどころではなかったこの数ヶ月、彼と夜を過ごすことすら考えられなかったのに、この環境のせいか、それともいつもと違う彼のくつろいだ雰囲気のせいなのか、今は無性に彼の香りが恋しかった。
それは彬の方も同じようで、気がつけばお腹を撫でていた手は少しずつ位置を変え、服の上から妊娠して重みを増した乳房を包みこんでいた。

「男の子かな、女の子かな?」
自分のお腹に手を当てた香流が問いかける。
「できれば女の子がいいが…どちらでもいい。無事に生まれてくれさえすれば」
そして彼は心の中でこう続ける。
君が一番大事なんだ。君が無事なら子供の性別なんてどちらでも構わない。


数日後、彼は一人別荘を後にした。
ここにいた間、結婚して以来初めて二人は誰にも邪魔されることなく時間を過ごすことができた。
家にいる時には決して見せない、柔らかな表情をする彼女を彬は思う存分甘えさせた。

思えば新婚旅行にさえ連れて行っていないのだ。
ここに来てからというもの、彼女は拗ねてみたり、おどけてみせたり、子供のように甘えてみたりといろいろな側面を彼にも見せるようになった。
こういう時の香流は、いつもの大人びて超然とした彼女ではなく、年相応の若い女の子の顔をしている。
それは彼が初めて見た妻の一面だった。
今更ながら如何に彼女が屋敷で気を使い、神経を尖らせて生活していたのかを知る思いだった。
もっと彼女を気遣い、甘やかしてやる機会を作るべきだった。
それでも香流は満足したように彼に寄り添い寛いでいた。この数日でずい分体調が良くなり、少しではあるが食欲も出てきたようだった。

「無理をしないように。何かあったらすぐに知らせるんだよ」
車に乗り込む直前まで彼女を気遣う彬に香流が微笑みかける。
「大丈夫。元気な赤ちゃんを産めるようにがんばるから」
「赤ん坊じゃない。君のことだ」
彼はそう言うと香流の頬を撫でた。
「君の体が心配なんだよ」

走り去る車を見送る香流の胸中は複雑だった。
あの言葉は、彼なりの愛情表現と思ってよいのだろうか。
ここに来てからの彬はこの上なく彼女を甘やかした。
その心地よさについ忘れがちだが、彼はまだ一度も自分を「愛している」とは言ってくれない。
そしてまた、彼女自身もそれを言葉にできないでいる。
もし彼に愛を告げて拒まれたら、そう思うとどうしてもその一言を口にする勇気が持てなかった。
もし彼の優しさが彼女ではなく、自分を通してお腹の子供に向けられたものだったとしたら。

私はこの子の添え物なのかもしれないのだ。
そんなことを考える自分が卑屈に思える。この堂々巡りが辛かった。
彼を愛している。
私の心も体も、こんなにも彼を求めているのに。


療養を始めてひと月余り、ようやく状態が安定してきた香流は体調を取り戻しつつあった。

このひと月でずい分お腹が目立つようになり、妊婦らしい体つきになった彼女を彬は賞賛のこもった目で見つめていた。
彼にとっても別荘で過ごした日々は貴重なものになった。
仕事をやりくりして時間を作るのは大変だったが、ここへ来るたびに彼を迎える歓びに輝く顔を見ると、その苦労も消えてしまう。
その笑顔を見ると、やっと香流が心を開き自分のものになったような気がした。
彼女の惜しみない愛情が自分に注がれていることを感じた彼は、今まで経験したことのなかった深い悦びに浸っていた。


「そろそろ家に帰らないといけないわね」
ため息交じりの独り言は、彼女の気持ちを表している。
明日には小早川の屋敷に戻らなければならない。
内輪で式はあげたものの、あまり日をおかず妊娠が発覚し、体調を崩した香流はまだ正式な披露宴で紹介されるという機会を持っていなかった。
そこで安定期に入った時期を見計らってお披露目を兼ねたパーティーが、一週間後に小早川の屋敷で開かれることになっていた。

「定期健診もあるし、そろそろ子供部屋も準備しないといけないから」
自分に言い聞かせるようにそう呟くと、香流は身の回りの荷物を片付け始めた。
体調が戻り、普通の妊婦と同じ生活ができるようになった今、彼女がここで療養しなければならない理由はなくなった。
彬にかかる負担を考えても、彼女が屋敷に戻るべきなのだ。

それに、ここにいる間は母の顔を見るチャンスはない。
先週あたりから気になり何度か電話を入れてみたが、いつも職員の返事は「眠っているので」か「散歩に出ているようなので」というような曖昧なものしか返ってこなかった。
もしかしたら母は電話に出られないほどひどく調子が悪いのではないか。それを彼女に隠しているのでは?
そんな疑いが香流の脳裏を過ぎった。
妊娠してからというもの、自分の体を維持するのが精一杯で、他のことにまで気が回らなかった。
もしそうだとしたら、彬なら何か聞いているはずだ。
そう考えた香流は、家に帰り落ち着いたらそのことを一番先に夫に聞いてみようと心に決めていた。




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