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あなたの声が聞こえる 14


それからの日々は表面上穏やかに流れ、香流は一時の混乱から少しずつ落ち着きを取り戻していった。

母の死というショッキングな部分の記憶は未だ戻らないままだが、閉ざされた過去の中でも、事故前にすでにそのことを知っていたのではないかと感じている。
ただその場にいたという事実を認識できない分、悲しみや痛みをその身に実感できないことの方が彼女には辛かった。

そして、彬との関係が普通ではなかったこともはっきりと分かった。
二人は彼から教えられたように愛し、慈しみ合うような間柄ではなかった。
周りの策に翻弄されて最初から互いを理解できず、ただ身体を合わせることでしか繋がることのない夫婦だったのだ。
しかし、少なくとも彬といかにして出会い、この状況に至ったのかは思い出せたことで、退院してすぐの何も分からない時よりははるかに気分が楽になったような気がした。
ただ、なぜ彼が今更あえて真実を隠し、事実を歪めて伝えようとしたのかということだけは、香流にはどうしても理解できなかった。

相変わらず彬が側にいると緊張を強いられたが、彼の方もそれを理解していて以前と変わらず適度な距離をおいて接してくれる。
ただ、時折彼が見せる重く暗い表情は、香流をたまらなく不安にした。
思い出した記憶の中の夫はいつも冷たく厳しい顔をしていたが、これほど苦悩の色を濃く写したものでなかった。
幾度となくその訳を問うたものの、彼は何も語ろうとはしなかった。
彼の苦悩の原因が自分にあることは感じるのだが、それが何であるかが分からない。
もし自分の存在そのものが彼を苦しめているのだとしたら。
そう思うと、閉ざされた記憶を呼び覚ますことが恐ろしくさえ感じる。 それが取り戻せないままの記憶の一部に深く関っているのだとしたら…。

しかし彬の存在を受け入れることができないまま、一緒にいることに耐えなければならないことはもっと辛いことなのだ。

一体どうすれば良いのだろう。
理性的に考えればすべてを思い出し、結果がどうあれそれに立ち向かっていくことが一番正しいと分かっている。
だが感情的にはどこかでそれを恐れ、拒んでいる自分がいる。
思い出したくない、と自らが消し去った記憶を今更蒸し返しても自分が傷つくだけだと。
記憶はより感情に従順なのか、今のところは彼女にすべての事実を明かそうとしてくれない。
真実は常にもどかしいくらいすぐ側を漂っていて、手を伸ばせば届きそうな気がするのに、それを掴むことができなかった。
記憶の鍵は、そんな彼女をあざ笑うかのように指の間をすり抜けていく。
何かのショックですべてを残らず思い出すことがあると聞いたが、本当だろうか。
もしこのまま元の記憶が戻らなかったら。
一生真綿で首を絞められ、のたうつようなこの苦しみを味わい続けることになるのかもしれない。
このままでは進んでも退いても、そして動かなくても辛いことに変わりはないのだ。

香流は何かを思い出すきっかけになればと、何度か周囲にも事故のことを問いただしてみた。
ただの事故なら彼らでも何か知っているはずだ。それが糸口になれば。
しかし誰に聞いてもまるで緘口令が布かれているかのように皆、口が重かった。
友人たちは事故に遭ったとしか知らされていないようだったし、使用人たちは何かを知っているようだが言葉を濁し、彼女の顔色をうかがいながらもそそくさと立ち去ってしまう。
なぜ誰も事実を教えてくれないのか。
記憶の空白部分で自分は何をしたのだろう。
もし口にすることさえ憚られるようなことをしてしまったのだとしたら…。
そう思う度にたまらなく恐ろしくなり、体が震えて止まらなかった。


10月に入ると再び学校が始まる。
香流はその前にしておきたいことが一つだけあった。
それは母の遺品の整理。
彼女に母親の死を知らせることができなかった彬は、母の遺品を外に保管させていた。

「これは?」
香流宛に数個のダンボール箱が届いた日、彬は彼女を書斎に呼んだ。
「お義母さんの遺品だ。療養所の近くに預けてあったものだが…もうその必要もなくなった。中を見て思うようにしなさい」

遺品が入った箱は、彼女の部屋の隣にある南東の角部屋に運ばれた。
自室の隣にあるその部屋は、元々彼女の寝室と続き部屋になっていた。
以前は彼女の部屋からも出入りができたのだが、病院から家に戻ってみるといつの間にか壁に仕切りが作られ、廊下側の扉からしか入ることができなくなっていた。
退院後、香流はそこへ足を踏み入れることを避けていた。
ドアの向こうに何か見てはいけないものがあるような気がして、その部屋に入ることが怖かったのだ。
「大丈夫、何ともないわ」
漠然とした不安を振り払い、自分に言い聞かせるように呟くと、息を詰め、微かに震える手でノブを握り押し開ける。
ドアは僅かな軋みをあげながら内側へと開いた。

昼間だというのに厚いカーテンが下ろされた部屋は薄暗く、よどんだ空気は長い間放置された空き家のような匂いがする。床にはあちこちにダンボール箱が積まれ、その多くが封をされたままだった。
思ったほどの閉塞間は感じなかったが、記憶にある印象との違和感は大きい。
以前のこの部屋は陽光の降り注ぐ明るく温かな場所だった。そう、確か壁紙は柔らかなクリーム色で床には足ざわりの良い絨毯が敷き詰められていた。

『これなら転んでも大丈夫ね』
記憶の中で自分が誰かに話しかけている。
誰に?

『外から良い風が吹いてきて気持ちよくお昼寝ができそうよ』
誰が?

『この壁の色、優しくて素敵ね』
私は誰に向かって話しているの?

香流は幸せな気分で漂っていた幻の世界から、現実に引き戻され首を振った。
あり得ない。
この家ですごした過去の日々に、こんな風に穏やかな気持ちになれる記憶などあるはずはない。

母の遺品が入った箱は、隅に重ねてあった。
部屋の明かりを点け、置かれた箱を一つずつ開けて中を検める。
中身は日用品や衣料品がほとんどだった。彼女が使えそうなものはほとんどなかったが、どれも捨てがたい母の形見だった。

最後の箱を整理し終えた時、ふとその横に詰まれたダンボールが目に留まった。
箱の横には彼女の字で小さく「写真」と書かれている。
急いで箱を開けると、出てきたのは退院後すぐに彼女が探していた子供の頃からのアルバムの束だった。
「こんなところに…」
懐かしさに思わずその場に座り込み、色あせた分厚いアルバムを手に取る。香流は時間も忘れて次々に箱の中から取り出した古い写真を眺めていた。
そして最後に一番底に隠すようにあった一冊のアルバムを手にした。
それは他のものに比べて一際重量のある、飾り表紙のついた豪華な装丁のものだった。
中を見るまでもなく判る。
自分の結婚式の時のものだ。
やっと見つけ出した、写真。
それは彼女が覚えている限り、一番不安でありながらも胸をときめかせた瞬間の記録だった。
緊張で強張る指でページを捲りながら、在りし日の自分の姿を追う。それらはまだ一年と少し前のことなのに、もうずっと過去の出来事のような気がした。

最後のページを見終えた彼女が指先をかけた時、裏表紙に挟まっていた薄いポケットアルバムが間から滑り落ちた。
中に入っていたのは、数枚のスナップ写真だった。
そこにはカメラに笑顔を向けた、見たことのない自分の姿が写し出されている。

「嘘…」
まるで見てはならないものを見てしまったかのようにその写真を元の場所に押し込むと、香流は再びそのアルバムを箱の底へと仕舞い込んだ。

「何かの間違いだわ。そんな、そんなはずは…」
しかし動転した彼女が箱の底で目にしたのは信じられないものだった。
記憶にある壁紙の色と同じ、優しい生成りの糸の潰れた束と、針がついたままになった半分だけ仕上がった編みかけの毛糸。
それを見た瞬間、猛烈なスピードでフラッシュバックが起こり、彼女の中で掘り起こされた記憶がコマ送りされ始めた。

信じられなかった。
抜け落ちた記憶が、あまりにも生々しく甦る。
香流は恐ろしいものから遠ざかるかのように、後ずさりながら部屋を出た。
他に何も考えられない。ただ一刻も早くこの場から逃げ出したかった。
脱兎のごとく長い廊下を駆け抜ける。
立て続けの大きな物音に何事かと様子をうかがいに集まってきた使用人たちには目もくれず、乱暴に音を立てて開けた玄関の扉を抜けると外へと飛び出した。
呼び止める声など聞く余裕はない。
ただ重すぎる事実に追われるように、あてもなく闇雲に走った。

どれくらい走り続けただろうか。
息が切れて足が止まり、歩くことさえままならなくなった香流はようやく人通りの少ない公園のベンチに座りこんだ。
気がつけばもう日は落ち、夕闇がせまる時刻になっている。
ゆっくりと気温が下がり空気も冷えていた。
着の身着のままで家を飛び出した彼女は、その場から動くこともできずに震え続けていた。
しかしそれは寒さではなく恐怖からくる震えだった。

自分が信じられなかった。
失った記憶はすべて取り戻した。
だがその事実は耐え難いほど残酷なものだった。

― 私は許されない罪を犯した。
  なのに自分だけは助かり、今もこうして生き長らえている ―



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