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あなたの声が聞こえる 13


香流はぴくりと身体を震わせて目を覚ました。
一体、私はどこにいるのだろう。
薄く開けた目に入る見慣れない部屋の様子に戸惑いながらも、ゆっくりと起きあがり、辺りを見回す。さらりと肩から滑り落ちた上掛けの下に何も身につけていない自分の身体を見て、慌ててその端を掴んで引き寄せた。
なぜ下着も着けないで、こんなところで眠っていたのだろうか。
混乱した記憶が覚醒と共に少しずつ整理されていき、肌に残る彼の残像が俄かにはっきりと浮かび上がってきた。

自分は昨夜ここで彼に抱かれた。

しかし今、部屋にいるのは彼女一人だった。
ぼんやりと見た時計の針が昼近くを指しているのに気付いた香流は慌てて大きなベッドから起きだした。
床に足をつけ立ち上がろうと力を入れた時、体の真ん中に違和感を覚えその痛みに思わず顔を顰めた。

彼は容赦なく奪っていった。

抗うことはおろか、気を落ち着かせる猶予すら与えてはくれなかった。そして木の葉のように揺さぶられる彼女を力でねじ伏せた。
彼の行為は性急ではなかったし、むしろ初めての香流を気遣い、身体を傷つけるような乱暴なことは決してしなかった。
確かに最初に彼が入ってきた時の痛みは想像を超えていた。狭い入口を引き延ばされ、彬が自分の体内にその全てをおさめた時は身体を半分に裂かれるかと思うほどの衝撃を受けた。
けれどもその時二人の体は文字通り一つに結ばれ、彼は彼女の一部となり、一時ではあっても互いの身体を共有した。
その瞬間、彼は香流に一番近い存在になった。
身体の痛みと共に与えられた精神的な繋がり。
彼女はその苦痛と引き換えに、男と女が身体を重ねることの意味を知った。

でも…
昨夜のことは、彬にとっては所詮取るに足らないことだったのかもしれない。
その証拠に今、彼はここにいない。
相思相愛の恋人同士ならば初めて身体を結び合った翌朝は甘い余韻の漂う時間を共に過ごし、愛を語り合うこともあるのだろうに。
「目覚めた時、隣にあなたの顔を見たかった」
香流の口から静かに嗚咽が漏れた。
何も知らなかった昨日までより、彼と身体を繋げてしまった今の方がずっと孤独だった。


その日、深夜になっても彬は帰宅しなかった。
昨夜のこともあり、気まずい思いを抱きながらもいつものように遅くまで彼の帰りを待っていたが、日付が変わった頃には瞼が重くなってきた。
朝寝坊したのにもう睡魔に襲われるなんて。
昨夜の行為は想像以上に体力的にもきつかったらしい。無理をした身体のあちこちに慣れない痛みを感じる。その上いろいろなことを考えすぎたあまり、精神的に疲れて果てていた。
今夜はもう諦めて先に休んだ方がよさそうだ。
香流はぎこちない動きでベッドに入ると、すぐに深い眠りにおちた。

窓の外が漆黒の闇から薄明るく明け始めたころ、ふと目を覚ました香流は側に感じた気配に思わず身体を硬くした。
どれくらいそうしていたのかは分からないが、いつの間にか隣に彬が横たわっている。自分とはまったく違う男性の体臭とコロンの混ざり合った香りがすぐ側にある。いつもの彼の香りだ。
今までは一度として彼女のベッドに入ったことのない彬が、彼女に身を添わせるようにして眠っていた。
身体に感じる鼓動は力強く、パジャマ越しに彼女に打ち付けてくる。目を閉じたままそっと指を滑らせると彼が上半身何も身につけていないことが分かった。
慌てて身体をずらし隙間なく張り付いた胸を離そうと後ずさった途端、彼に腰を掴まれ引き寄せられた。
「おはよう」
眠たげな声で耳元に囁かれると、思わず身体に震えが走る。
目を開けると、のぞきこむ彼の瞳が目の前にあった。
「いつからここに?」
問い質すような声には答えず、物憂げな眼差しを向けると、彼女の髪に片手を埋め、唇を近づけた。
舌で輪郭をなぞられると自然と唇が緩み、その隙間から舌が入り込んでくる。
押し付けられた唇に呼吸を奪われ、息苦しさに顔を引き剥がそうともがくが、頭に添えられた手は簡単にそれを阻み、一層強く彼女の顔を押しつける。
その間にもう片方の手は彼女のコットンのパジャマのボタンを弄り、手早く一つずつ外していった。
「ずっとこうしていたかったよ。仕事中も気がつけば君のことを考えていた」

彼がはだけて露になった胸のふくらみに顔を寄せる。柔らかな感触を楽しむかのように両手で乳房を包み込むと、その頂を口に含んだ。
か細い声をあげて、香流が快感に身を震わせる。
昨夜彼に教えられた快楽への入口はことのほか甘美で、その味は彼女の自制心をあっけないほど簡単に押し崩した。
目覚めた時に感じた、一人置き去りにされたという寂寥感も彼に触れられた瞬間に消え去り、今はただこの時間だけが彼女を突き動かす。
前夜よりももっと時間をかけた濃密な愛撫を与えられた香流の全身は歓びに震え、無防備にその身体を彼の前に投げ出した。
やがて、彬がゆっくりと彼女の中に押し入ってきた。
昨夜のように引き裂かれるような痛みはなかったものの、やはりまだ彼を包み込むのが精一杯で無意識に身体に力が入る。それでも腰を煽られると彼女の身体の奥深く、今まで誰も触れたことのない場所がこすられて、その僅かに痛みを伴う感覚に肌が粟立った。
彼の手と唇がもたらす快感と彼の高ぶりに与えられる甘い苦痛がないまぜになりながら、彼女を内外から揺さぶった。
自分でも掴みどころのない、押し上げられるような感覚に、彼女の内部が意思とは関係なく本能で彼をきつく締め付けた。
その絞るような動きに抗いながら何度か腰を打ちつけた後、低い呻き声とともに大きく痙攣した彬は彼女の中に熱を放ち、そのまま香流の上倒れ込む。そして弾む息が整うのを待ち、仰向けになると、彼女の身体を自分の上に引き上げた。
彬の指が、まだ余韻を残し気だるげに身体を預ける彼女の髪を梳きながら、剥き出しの背中をそっと撫で上げる。
その心地よい刺激に満たされながら、香流は夢見心地のまま再び深い眠りへと落ちていった。


その日から彬は二日と空けず彼女を求めるようになった。
彼はどんなに帰宅が遅くなっても必ず部屋に来て、香流のベッドに入ってくる。
彼を受け入れることが始めは辛かったが、身体が馴染むのにそれほど時間はかからなかった。
多忙な夫との間に相変わらずのすれ違い生活が続く中で、ベッドの中で身体を重ねるひと時だけが唯一、二人が周囲に邪魔されず共有できる時間だった。
彬を身体の中に感じている間は孤独が癒される。
彼女はただそれだけを縁に彼の求めに応じ続けた。
やがて逼迫した体の熱が収まり、疲れ果てた香流の目が閉じ始めると、彬は彼女の頭を撫で、子供をあやす様にそっと身体を揺らしてくれた。彼に抱かれた夜はいつもその温もりに包まれて眠りにおちる。
しかしあの日以来、なぜか彼は決して香流と共に眠ることはなく、目覚めればいつもベッドには彼女一人が残されていた。
情熱的な夜を過ごした翌朝ほど惨めな気分になった。
やはり彬にとって、自分は欲望を満たすための抱き人形でしかないのだろうかと思うと、遣る瀬無い気持ちになる。
それでも毎夜のように自分の元を訪れる彼を拒むことはできなかった。
なぜなら、他には何一つ夫を繋ぎとめる術を知らない香流にとって、この時間だけが彬と自分をつなぐたったひとつの確かなものだったのだ。


その出来事から先は、いくら思い出そうとしても記憶の中に霞がかかったように感じて先には進めなかった。
何かよほど思い出したくないことでもあるのか、何か大きな障害物が故意に彼女の行く手を阻み、それより先の記憶を覆い隠しているようだった。
ぐったりとシートに沈み込んだ彼女を心配そうに見つめる彬の視線を感じながら、香流は疲れきった表情で目を閉じた。
「あなたはあの時、私を力ずくで奪ったのね」
静かな車内に響く彼女の声はかすれて弱々しく聞こえる。
「でも、少なくとも私はあなたを拒んだことはなかった。なのになぜ、今の私はあなたを受け入れられないの?」

彼はただ沈痛な面持ちでその言葉を聞いていた。
問いかけに対する答えはなかった。

彬がそれを口にしない本当の理由を彼女は知らない。
このまま香流にすべてを知られることなく人生を全うできるものなら、彼は全てを引き換えにしてでもそうするだろう。
何の迷いもなく。

彼は恐れていた。
全てが明らかになった時、彼女が再び自らを壊してしまうことを。




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