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あなたの声が聞こえる 11


視線を感じた彼が顔を上げると、香流がじっとこちらを見ていた。
遠目にも分かるほど青白い顔とこわばった表情をした彼女は、彼の目が自分を捕らえたと知るや否や、くるりと背を向けてドアの方へと歩いていった。
彬はその態度に不審を抱き、側にいた人たちに断り彼女を迎えに行こうしたが、その時すでに彼女は視界から消えていた。

「どこへ行くつもりだ」
タクシーを拾おうとした彼女の後ろから、不機嫌そうな声がした。
振り向くと、不愉快そうに顔を歪めた彬が自分の背後に立っている。
「帰ります。私がここに居てもお邪魔なだけでしょう?」
突然後ろから腕を掴まれて引き寄せられそうになった香流は、よろめきながらも彼の手を振り払った。
「パートナーならここで調達しても問題ないでしょう?あなたなら選り取り見取りじゃないの。名目上の妻だという理由だけで同伴してきた私なんかと一緒にいても退屈なだけだって、そうはっきり言えばいいじゃない」

戸籍の上では妻。
しかし今の自分たちは一番身近な存在であるべき伴侶とは到底呼べない関係だ。
彼と自分の間には大きな壁が立ちふさがっている。

「ふらついている、酔っているのか?」
「いいえ。酔ってなんかいないわ」
ただ真っ直ぐに立っていられないくらい惨めな気分なだけよ、と心の中で呟く。
「君は…」
「お先に失礼します。ところで今夜は帰ってくるご予定はあるの?またあの女性のところに泊まるのなら、後で誰かに着替えを届けさせますから」
「一体何のことを…」
「惚けても無駄よ。さっきご親切にもあなたのお友達が教えてくださったの。昨夜はたっぷりとお世話になったそうだから、お礼のひとつも言った方がよかったかしら?」
「昨夜はどこにも行っていない。自分のマンションに泊まっていた」
喉の奥から絞り出したような声で反論する彬を、香流は感情のない冷たい目で見据えながら遮った。
「綺麗な方ね。私みたいにおどおどした見栄えのしない子どもと違って、場慣れていて自信に満ち溢れていて。彼女のような女性なら、さぞかしあなたを楽しませてあげることもできるんでしょうね、こんな席でもベッドの中でも」
「いい加減にしないか」
急に乱暴に肘をつかまれた香流が驚いて顔をあげると、そこには見たこともないような激しい怒りを露にした彼の目が彼女をとらえていた。その恐ろしいほどの鋭さに思わず身が竦む。
逃れようと腕を引いたが掴まれた肘はびくともせず、かえって彼に乱暴に引き寄せられただけだった。
「放して、痛い」
苦痛に顔を歪める彼女を平然と見つめたままで、彬は回されてきた車の後部座席に彼女を強引に押し込み、続いて自分も乗り込んだ。
「青山のマンションの方に行ってくれ」
彼は運転手にそれだけ言うと、深々とシートに体を沈めた。
「その後で自宅に向かってください。私はそちらへ帰らなくてはいけませんから」
「マンションまででいい」
前にいる運転手に向かって行き先を告げた香流を冷たい目で一瞥すると、彬は吐き捨てるようにそう一言告げて、そのまま運転席との仕切りを上げたのだった。


初めて足を踏み入れた彬の所有するマンションの部屋は、最上階のペントハウスにあった。
玄関のドアを開け、抵抗をする彼女を中に引き入れると、彼は乱暴に音を立ててドアを閉めた。オートロックがかかる電子音が僅かに聞こえる。
「ここが僕のマンションだ」
憮然とした声でそう言いながら靴を脱ぐと、彼は香流を引きずるようにして廊下を歩き、奥の扉へと向かった。
「そしてここが寝室だ」

寝室となっている部屋にはクローゼット以外にほとんど家具はなく、一人で寝るには大きすぎるキングサイズのベッドだけが置かれていた。
「片付かない仕事が山積みで、家まで帰るには遅くなりすぎた。だから僕は昨夜ここに僕は寝た」
「彼女と?」香流は冷やかな口調で毒づいた。
「いや、一人で、だ」
彼は一言ずつ区切りながら、喉から声を絞り出すように言った。
「何を吹き込まれたのかは知らないが、僕はやましいことはしていない。君という妻がいる以上―」
「私はあなたの妻なんかじゃない」
香流はそう叫ぶと、力任せに身を引き彼の手を振りほどいた。
「自分に魅力がないことは身にしみて分かっているわ。あなたから見れば私なんて女として手に入れる価値もないということも。あなたが私と結婚したのはただ単に借金の担保が欲しかったから。決して私自身を望んだわけではない。誰でも良かったのよ、そうでしょう?」
いつも冷静さ装うことで自分を守り続けていたはずの彼女だが、今夜はなぜか感情を抑えきれなかった。
自分の前では素振りさえ見せない彼が、どこかで公然と他の女性を抱いている。
その姿を想像するだけでふつふつとした怒りがこみ上げてくる。
しかし彼女はそんな醜い感情を無理矢理に抑えつけた。

「あなたがどこで誰とベッドを共にしようが私には関係ない話かもしれない。でもね、ああいう場所であなたの女性関係に煩わされるのだけは勘弁してほしいの。やるんだったら私に分からないようにもっと巧くやってくれればいい」
そして彼女は最後にこう付け加えた。
「私に魅力を感じないのなら我慢しなくてもいいから好きにやって。その代わりに私がそうする時もあなたに勘付かれないように慎重に相手を選ぶから―」

気がついた時には彬に肩を掴まれ、乱暴に揺さぶられていた。肩にかかる彼の手が与える容赦のない痛みに、思わず身を捩るが指はますます柔らかな肌に食い込んだ。
「君は僕の妻だ。他の誰かと付き合うなんて、冗談でも許さない」
彼の口調の激しさに戸惑い、不意をつかれた彼女を抱き上げるとベッドに運び乱暴に放り出す。そして、その身体を押さえ込むように無造作に上から覆い被さった。

「絶対に…許さない」

抗う香流をシーツに押し付け、彼女の唇を貪るように捕らえる彼のそれは、香流から呼吸を奪い、思考を奪い、そして理性をも奪い去った。
たった一度、神の前で誓い合ったあの時の柔らかな口づけとは比べようもないほど激しく求められた唇は、熱を帯びていく。その間にドレスのストラップが引き下ろされ、肩紐のないブラジャーが容赦なく剥ぎ取られていった。
「やめて!」
押し付けられた唇の熱さに抗うことができず、さりとてそれにどう応えてよいかもわからない彼女はありったけの力を込めて彼の肩を押し返した。
「放して…」
彼女は転がり落ちるようにベッドを抜け出すと、恐怖に顔を強張らせ、肌蹴たドレスの胸元を引き寄せながら後ずさった。
これほどまでに荒々しい表情をした彼を見たのは初めてだ。思わず身が竦む

「そこまで言うのなら、僕がどう思っているのかを、その身体に教え込んでやる」
彬はそう言うと、追い詰めるように彼女に近づいていった。
「来ないでっ!」
間を詰められまいとしてじりじりと後ろに逃げる。剥き出しの背中に冷たい壁が触れたと思った瞬間、彬の手が彼女の身体を捕えた。
「お願い、もう止めて…」
懇願しながら、なおも腕を振り上げ身を捩るようにして抵抗する香流の、ドレスの大きく開いた胸元を彼の手が掴んだ。
布地の裂ける鈍い音と共に、彼女が身につけていた美しいドレスは胸元から裾まで大きく引き裂かれていた。盾となる覆いを失った彼女の胸が大きく波打つ。
「何故、どうしてこんなことを…」
香流は露になった部分を隠そうと、両腕で自分の胸を覆い震えながらその場にしゃがみこんだ。
急に乱暴に扱われたショックで歯の根が合わず、身体が竦んで思うように動かない。
そんな香流を抱き上げると、彬は無言のまま再びベッドに向かい、今度はそっと彼女を横たえた。
「いずれはこうなる運命だったんだ」
彬はそう言うと、破れたまま中途半端に身体に絡みついた彼女のドレスを静かに取り去った。

もう彼女は抗わなかった。
自分を優しく慈しんでくれる夫はもういない。
今目の前にいるのは、彼女の身体を力ずくで奪おうとする一人の男でしかなかった。




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